感性の整合性=情感の共感性
 
 
聖書を読む場合に、聖霊の導きによって受け取るべきだという人々がいるようだ。しかし、人は今自分に聖霊が降りているかどうか、何かが働くとき、それが聖霊であるかどうか、分かるというのは、神が秘された業すなわち神秘に対する冒涜である。
 
聖書を読む場合に、文字通り受け取ろうとする人々がいる。聖書は絶対の書だから、解釈をしてはならないという立場がある。しかし、文字通り受け取るのも、一つの解釈に過ぎず、それゆえに神の言葉と言ってしまうのは思い込みである。人は言葉を、意識しようとするまいと、解釈を通さずに受け取ることはできない。
 
一方、聖書を読む場合に、解釈として理路の整合性を読み取ろうとする人々がいる。読み方としては上の2つより妥当である。しかし、理路で語れることが真理とは限らない。理路以外にも大事なことがある。
 
それは、感性の整合性、言い換えると、人間の情感に沿っているかどうか、つまり、人間に相応しい直感として、そして人間の望ましい情感に相応しいかどうかを見ることである。これは、とても大事なことで、この情感が、ぬくもりと潤いを人に与えるのである。人間に相応しい感性と情感を、神が知らないはずはない。実際には、多くのことが、この情感によって篩にかけられるだろう。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
この個所の受け取り方は、28節が守るべき教えならば、到底守れない。ならば祈り、告白するべきである。主よ、この教えは守れません、自分は地獄に落ちるのでしょうか、主よ、どうか、おゆるしください・・と。
 
さらに、キリストは何ゆえ守れない無理な教えを言われたのかを考えてみる。キリストは、罪びとを救うために来たのだから、守れない教えを、教えとして語るはずはないだろう。それに守れば救われるというのは、パリサイ人の戒律ではないか。この教えは、そのまま守るべき教えとして語られたのではない。キリストは、罪びとと知って、罪びとを救いに来られた。キリストの言葉が罪びとの救いであるならば、キリストが教えている真実は、
 
罪なき者は一人もいない、
 
という教えではないか。ならば、この時代、また、今の時代も、罪を犯さず、または、贖いによって罪がなくなったから、救われる、などと思う人が多いのは嘆くべきことである。さらに、他の教えにも、こういう視点は必要なのではないか。
このように考えるには、自分の人間としての能力の限界を知って、相手が神でも、いや、神であるからこそ、どうしても正直に言わずにはおれないだけの正直さが必要である。この正直さを支えているのは、人間として、どうしようもない限界ゆえに罪深いという悲しみを知っていることである。人の止むに止まれぬ悲しみの情感を共感として感受し、それが、あらゆる思考と分別と節操のベースにあることがキリストによる赦しと救いには不可欠なのではないか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
 (マタイ19:16-22、新約聖書)
 
この資産家の青年は、この時代においては良心的な青年と思われる。親と社会に教えられたことを守って期待通りに生きてきたのだろうから、善人としての自信があったのかもしれない。だから16節「永遠の生命を得るためには」とキリストに聞いたのであろう。それで19節「みな守ってきました」とキリストに言った。
罪なき者は一人もいないというのは真実である。ゆえに「守ってきました」と言う青年に、キリストは、青年が守れない教えを、ここでも言うことになる。21節、キリストは、自分は完全だと思っている青年に、守れないことを承知の上で言っている。「完全になりたいならば」ともキリストは言っている。つまり、ここでの真実は、
 
完全なのは、神のみであって、人は決して完全ではない。
 
 
人が生きることの悲しみの共感は、
人が生きるための、忘れてはいけない温もりと潤いです。
 
 
(2017年09月25日、同日一部修正)
 
篩(ふるい)
 
 
よろしければ、以下のランキングのリンク、3つのうち、どれでも1つ
ポチしていただくと単純に喜びます。
(目標は、ブログ村キリスト教ランキングの1ページ目に載ることです。)
[https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]