空の空論
 
 批判対象:
 「その名は不思議」ブログ
 管理人:shalom
 批判対象記事:
 伝道者の書1章1~3ー空の空。すべては空!
  2017/9/26(火) 午前 9:17 
 https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28268044.html 

 
 転載元:

 生活の中の聖書
 転載元記事:
 伝道者の書1章1~3ー空の空。すべては空!
  2009/10/19(月) 午後 1:03 

 https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/21751642.html 
 
転載記事です。一方的な断定が多くて、シャローム氏によく似ています。
 
>1 エルサレムでの王、ダビデの子、伝道者のことば。
>2 空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。
>3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。
 

この書はいきなりすべては空(くう)の空であると言うのである。問題はこんなことばを言う人物は誰かということである。

 
引用は旧約聖書の伝道の書の冒頭です。ダビデの子と書いてあるから著者はソロモン王とみる向きもあるようですが、
 
近代における研究では、『コヘレトの言葉』はソロモンから数百年も後代の紀元前4世紀から同3世紀にかけての第二神殿時代に書かれたと推定されている。同書の著者あるいは編纂者は、当初よりこれを知恵文学を代表する著者名であるソロモンに(律法全体をモーセと呼ぶように)仮託したものと見られている。
(ウィキペディアより)
 

私たちは何かに失敗し、如何にも悟ったようにこのように言うことがある。「何をしてもうまく行かない。むなしい。」と。ここで言われることはそのようなものではないのだ。
イスラエルの王で、あらゆる名声と権力と冨と知恵に富んだ人として最高の地位を得た人物が、その人生を通して、見出した中で得た結論なのだ。それが「空の空。すべては空。」であると言うのである。

 
空の空、というのは、「あらゆる名声と権力と冨と知恵に富んだ人として最高の地位を得た人物」が言うから意味があり一般の人が言っても意味はないような言い方をしています。この転載元は、何でも好きなようにできるはずの地位の高い人が言うから、意味が分かるというのでしょうか。そういう人の「空」だから分かるというのでしょうか。自分を同じ位置においている証拠ではないでしょうか。何様のつもりでしょうか、否、自分を高いところにおいているから、そこからこういう蔑みを平気でする人のようです。
 
それとも、地上の栄光を得た王さえこう言うのだから、書いてあることは正しく、すべての人に通じるという根拠にしたいのでしょうか。もし小さく弱い人が「空」とか「空しい」とか言ったら、この転載元は「そんなものじゃない」とでも言って一蹴するつもりでしょうか。あるいは、ここに書いたようなことを語るつもりでしょうか。自分は大きい人のつもりなのでしょうか。いったいどんな人間関係を学んできたのでしょう。
 
この「空(くう)」は、それを言う特別の地位の人物だけの「空」ではありません。この地上に存在することの悲しい「空」なのだと思います。無常も悲しいし、何かを失うことからの空しさも悲しいのです。得たものが多ければそれだけ多く空しさを感じる、という以外の違いはないでしょう。転載元は、いかなる身の程で、なにを特別になりたがっているのでしょう。「如何にも悟ったように」言っているのは誰でしょうか。
 

私たちは日々に於いて何らかの労苦をする。ブッタは私たちの人生には四苦八苦というものがあると言う。
四苦それは生病老死と言い、私たち人間というのは、この世に誕生した時から始まり、その間には病があり、老いていくこともあり、この世から切り離される死まで苦しみを負う存在だと言うのだ。
そしてそれに加えて4つの苦しみがあると。愛別離苦、怨憎会苦、求不得苦、五陰情苦である。愛する者と別れる・一緒にいたくない者にも会わなければいけない・求めても得られない・肉体的、精神的な生きるための苦しみのこと。


 
労苦について、キリスト信仰から述べるのに、ここで転載元は、なぜか、仏教の結構難しい熟語について述べています。転載元は、以前、小説「蜘蛛の糸」を引用し、キリスト教の神はこんな救い方はしないと、小説の批判をもって仏教を批判したことがあります。ここも同じ意図なのでしょうか。ならば、恥ずかしいことなのですが。
 
私はと言えば、例えば、色即是空の色は現象のことで空は実体がないことを意味する、というのをテレビで聞いたことがありますが、よくは知りません。知りもしないことは、仏教徒ではないのだから、書かないほうがよいと思います。それこそ無知発信からの空しいだけの話になってしまいます。
 

その根源的な原因を聖書は神に愛されていることを知らず、創造主なる神を無視して生きている罪の人生にあるのだと言うのである。

 
そして直後のここは、どう考えても、キリスト教の教理なのです。書きたいように気まぐれに書いていて、文脈の節操と分別が乏しいという印象を受けます。
 

この書は何一つ不可能ではなかった人物が、私たちに代わっていろいろと試みた記録集であり、教訓でもある。その一つの結論が1:2~3「空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。」である。

 
「何一つ不可能ではなかった」は、これだけでは甚だ不十分です。得れば得るほど空しさを感じるのは、どうしても手に入らないものがあるからでしょう。それは、王でも手に入らないもの、例えば、神聖なる永遠の命ではないのでしょうか。地上の富を得るだけでは、人は、いつか結局、満たされなくなるのです。ここは書き方が荒いと申し上げます。
 

このことは老若男女すべてのおいて語られることなのだ。これらの問題の答えは政治の力でも解決出来ない。それはこれまでもそうであったように、これからもそうであろう。「空の空。すべては空」からの解決は人間の創造のもとに帰ることが必要なのである。

 
人間の創造のもとに帰ることが必要と、まず一発目の、空想の空論的言葉を述べています。ここが空虚であるのは、言葉通りなら戻れないし、今、神のもとにということなら、そんなに気安く言い得る言葉ではないからです。
 

そうなのだ。私たちが自分のためを優先し、自分を生かすことにのみ心を注いでいるゆえの苦しみなのだ。私たちの人生は、自分の幸福と欲望を充たすことにあると考えている。

 
自己肯定しています。それで、幸福を求めてはいけない、また、欲望は悪だ、というような単純で極端な道徳がキリスト教だと言っているのでしょうか。どこかで誰かが既に言っているようなことを言って、どこが福音つまり良き訪れになるのでしょう。原始人に説教しているのではないのです。
 
ここにも、シャローム氏の自己中の正義に凝り固まった神がかる立場からのボロクソ節に近いような気がします。
 

パスカルは「人間の心の奥深いところには、神のかたちをした空洞があり、この空洞は神以外の何物を入れても、決して満たされない空洞がある。」神との親しき交わりが失われているから、何かで埋め合わせようとするのだと言う。

 
神との親しき交わり、という言葉も、神という絶対を恐れる人にとっては迂闊に口にできない言葉なのですが、人間の立場を離れ、神がかりの立場に立つ者は、こういうことをしばしば語りたがる傾向があります。二発目の空想です。
 

偶然の要素である満足感は環境に左右されるものである。しかし神から来る幸いは真の満足なのだ。もう一つの結論はこうである。

 
「神からくる幸いは真の満足」という言葉には転載元の気張りがあるようです。そう習ったか、そうでなければならない、という気持ちが、気張らせていて、実感と共感を誰にも与えることのできない三発目の夢想言葉です。
 

12:1「あなたの若い日にあなたの創造者を覚えよ。わざわいの日が来ないうちに、また『何の喜びもない。』という年月が近づく前に。」なのだ。

 
バカボンのパパみたいに思えてきました。この聖句は私の好きな聖句なので若干腹が立ちます。
 

イエスは私たちのさまざまな苦しみをその十字架で負ってくれたのだ。だからこそ、私たちはイエスの足跡を覚え、イエス・キリストとともに行く道は「すべては空の空。ではなくすべては益の益。」となっていくことを信じ、歩み続けていきたいのである。

 
「すべては益の益」と信じて、歩み続けていけるでしょうか。転載元は、念じているだけで、少しも切実に伝わってくるものがありません。空を益に替えただけの四番目の空想です。こういう文章こそ、シャローム氏のような自己中の偽善者には、美味しい餌づくりの仲間になるのです。そういうシャローム氏の影響の証拠であるかのように、転載元も、いつのまにかコメント欄とゲストブックを廃止して、単方向の言いたい放題ブログにしています。
 
>転載元: 生活の中の聖書
 
シャローム氏が、好んでしばしば転載するキリスト教のブログです。
 
シャローム氏の記事にも、この転載記事にも、共通して見えてくる考え方の欠陥は、人間らしい悲しみの共感の立場がまるでないということです。悲しみをいくら否定しても悲しみは追いかけてくるのに、まるで悲しみこそが罪悪であるかのように忌み嫌っている。そういう考え方が、結局たどり着くのは、言葉だけマイナスの感情を否定する方向、そして、実感のない空虚な讃美の言葉の羅列、それこそ思い込みから空想に至る自分信仰、空し過ぎる空論なのです。
 
ここでの私のキーワードは、
空しさ、実体のなさ、
そして、しつこいようだが、
存在することの
悲しみの共感、です。
 
キリスト教の指導者たちは、キリスト教系の不適切な思想やカルトに対して批判をしてこなかったと思います。それが「悪い言葉を用いてはならない」という聖句などから、悪口と批判を混同して、批判禁忌の不文律を助長してきたのだろうと思います。それゆえ、どんどん境地自慢の空想信仰者が増えてきたのでしょう。
 
 
ちょっと気取っていますが、昔私が書いた宗教詩みたいなものを載せておきます。
 
   友
 
あなたが多くの人に出会ったとして
どれほどの人に愛されたであろうか
どれほどの人に傷つけられたであろうか
と考えるよりも先に
どれほどの人を愛したであろうか
どれほどの人を傷つけたであろうか
どれほどの人に悪意をいだいたであろうか
人は到底それらすべてを知り得ない
傷つけられたことは覚えているのに
傷つけたことは容易に忘れてしまうか気づいてさえいないものである
忘れることをすべて幸いといえるだろうか
すべてを忘れることの不幸を少しでも思うならば
父なる神、主を恐れることは知恵の始めである
 
あなたに多くの友がいるとして
どれだけが欲の友であろうか
どれだけが虚礼の友であろうか
どれだけが理屈の友であろうか
どれだけが誠の友であろうか
たとえ誠の友・真の友・愛する友がいたとしても
人の心はうつろいやすく命には限りがあるのだから
友が先に死んだならば取り残され
あなたが先に死んだならば友が取り残されるのである
別れと孤独を少しでも思うならば
永遠の友、主を覚えることは愛の始めである
  
  
  ヨブ・伝道者・キリスト
 
真昼の空にある星たち
真冬の海に降る雪たち
 
かけがえのない
孤独の夜に散る命
孤独の昼に叫ぶ命
 
どこかで過ぎる
この世の時
どこでどのように送られ
過ごすのでしょう
あの世の時
 
ヨブほどに栄えることもなく
ヨブほどに悲惨なこともなく
試されているとき
キリストほどに孤独でもなく
キリストほどに語られることもなく
主よ
空の空
伝道者よ
楽しめる取り分は
目の前に
明日に
昨日に?
見ようとしても
見えないものたち
どこにありますか
 
 
  うつしよ
 
音信は彼方よりも来るとはいえ
スクロール スクロール ・・・
しだいに揮発するかのように
見えなくなる現世(うつしよ)を
空の空とも 無常とも
有為(うゐ)とも 奥山とも
思し召せ 音信は彼方より
胸に迫り 胸に落ち
胸に刺して傷む個を
個は否みようもなく
ともに 束の間 祈り
仰ぎ見るほかに何が出来よう
 
互いに朽ち果てる肉体を抱えて
御国にて再会 しばし疑い
いずれ 互い も 途絶えて
隠世(かくりよ)に消え去るというに
その時までの ひとときを
弱々しい音信を頼りに
心を揺らしているしかない
 
だから恩信の友よ
音信の友よ
信仰の友よ
孤独の友よ
友よ あなたは
友よ わたしは
友なのか
 
 
(2017年09月27日、同日一部修正)
 
迂闊(うかつ)
羅列(られつ)
 
隠世(かくりよ)
かくりよ:
 常世(とこよ)、かくりよ(隠世、幽世)とは、永久に変わらない神域。死後の世界でもあり、黄泉もそこにあるとされる。「永久」を意味し、古くは「常夜」とも表記した。日本神話や古神道や神道の重要な二律する世界観の一方であり、対峙して「現世(うつしよ)」がある。
(ウィキペディア)
 
隠世は、神道の言葉でしたか、知りませんでした。仏教かと思っていました。失礼。
 
 

よろしければ、以下のランキングのリンク、3つのうち、どれでも1つポチして
いただけますならば単純に喜びます。
(目標は、ブログ村キリスト教ランキング50位以内の1ページ目に載ることです。)
[
https://poem.blogmura.com/darkpoem/ranking.html
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]
 にほんブログ村 哲学・思想ブログ 思想へ(文字をクリック)]
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]