大事とは?
 
 批判対象:「その名は不思議」ブログ
 管理人:shalom
 批判対象記事:
 強さと弱さ どっちが大事?
 2017/9/8(金) 午後 3:26
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28244584.html
 
 類似の過去記事:
 弱さ、強さ、どっちが大事? 
 2016/6/7(火) 午前 7:31
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27504492.html
 強さと弱さ、どっちが大事?
 2015/9/17(木) 午前 8:46
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26931174.html
 
 
シャローム氏は、もう殆どコピペすることで、書いたことにしているようです。今日も、まるでキリストのように丘に立って見下ろしたがる者を、そこに立つ御方はただ一人である、さっさと下りてこい!と、私は言うことになります。
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★(2014.6.13)
>+++++++++
>「どちらを選ぶか」
 
>人生には大きな選択から小さな日々の選択までいろいろあります。
>どちらを選ぶかで、その先の進む道が大きく違ってくることがあります。
 
彼は、善悪の判断を放棄するとか言っていて、そのことをまだ訂正していないのですが、何もなかったかのように、この記事を書き、小さな日々の選択があると書いています。日々の選択には善悪の判断は入らないのでしょうか。
 
>詩篇119:29、30
>偽りの道をわたしから遠ざけ
>憐れんで、あなたの律法をお与えください。
>信仰の道をわたしは選び取りました。
>あなたの裁きにかなうものとなりますように(新共同訳)。
 
>今日のみ言葉には「偽りの道」と「信仰の道」とふたつの道が出てきます。
>「真実の道」「真理の道」と訳されている聖書もあります。
 
彼には、自分の罪に向き合う心がないので、平気で「偽りの道」と「信仰の道」などと書いてきて、
 
>偽りと真実とは大きく違います。
>ところが、現実には、偽りが本物のように思えることがあり、
>また、真理や本物が偽りのように思えることがあります。
 
そう見せてきたのは、まさに、彼自身です。そうでないなら弁明か反論ができるはずですが、彼はコメントを削除して最初から無かったかのように見せかけているのです。
 
>どちらも外からは分かりにくい心の内面から始まる道です。
>ですから、どちらを選び取るかの決断は心の中でなされ、
>それが外に、行動に現されます。
>あなたやわたしには、その決断のための判断、基準となるものがあります。
> 
>何でしょうか。

>世間の常識、自分の経験や知識を基準とすることもありますが、
>他方は主の「律法」、つまりみ言葉ですね。そして主の「裁き」、主の判断です。

>ですから、信仰の道、真理の道を選び取るとは
>自分の中の不真実や偽り、偏見によって道を選び取るのではなく、
>私が道であり、真理であり、命であると言われた主イエスを選び取ることです。

>どう思いますか。
 
こういう真理や命といった讃美の文言を、シャローム氏は、こよなく愛しているようです。これによって、自分は主イエスの判断によっていると主張したいからです。主を選んで従う者が、どうして他者の意見を削除して、双方向を遮断する必要があるのでしょうか。彼は、人の言うことが分からなくても分からないと言えず、自分が何を言っているのかも殆ど把握できていない文脈なのに、できているという体裁を装っています。表面だけ膨張した言葉を使い、大仰に讃美することをことさら強調するしかなくなっているのです。主イエスを選ぶことがどういうことなのか、全く分かっていないのに、考えもせず、主を選ぶと言い続けている拡声器に過ぎません。
 
>《shalomのコメント》

>平和と安全を求めながら、戦争の火の粉が絶えたことのない人類の歴史。
>だからと言って、人間がみんな悪人というわけではありません。
>いや、むしろ、善人のつもりでいるのではないでしょうか。
 
自分はどうなんだ、ということが、シャローム氏には、付きまとうでしょう。自分についての無自覚が、信仰を、正義を、根底から台無しにしてしまっています。信仰を、種無しに変えてしまいます。
 
>ひとりひとりの人と会ってみるとよい人なのに、
>群れの中のひとりになったり、権力を持つと別人に変わることがあります。。
>日頃は常識も良識があるようでも、人はそれほど強くはありません。
 
そうでしょうか。シャローム氏に、少なくとも、この6年間、常識や良識を認めることは一度もありませんでした。むしろ、暴力的な権威主義を感じるばかりです。
 
>いや、むしろ、ひそかに弱さを恐れているのではないでしょうか。
>弱い犬ほどよく吠えるといわれます。的を得た言葉のようです。
>ですから、誰でも心ひそかに力を求めています。
 
このように、白々しい丁寧語で、「弱い犬ほどよく吠える」と当てつけて、他者の弱さをあざ笑うのが、シャローム氏のやり方です。丁寧語が侮辱になる例として覚えてほしいところです。彼が、心の底では、いつも他者を自分より劣った下の者とみなしていることが、よく表れています。しかし、その根拠を示したことは、一度もないのです。彼は、他者が意見を書き込めないようにして、逃げまくっているだけなのです。
 
>体力、能力、集団の力、精神力、経済力、軍事力、政治権力など・・・。
>力はもつとやはり誇示したくなるし、支配したくなります。
 
持たないのに力と立場を誇示したいシャローム氏のような人は、強制力に頼ることになり、いつか、無秩序な暴力行使に至る可能性があるだろうと危惧しています。
 
>親の養護なしには生きていけない幼児にも万能感があります。
>泣いたり、笑ったり、駄々をこねたりして、
>なんとか自分の思い通りにしようとする。
>いつまでもできることではありませんが、親が甘やかしすぎると、
>いつまでも幼児的な万能感を手放せなくなります。
 
そして、今でも、全く理路の成り立たない幼児的な詭弁や、神の名だけを悪用した万能感に浸っているのがシャローム氏なのです。幼児的な万能感は今でもシャローム氏の持ち物です。既に、一度も弁明できていないことが証拠になっているのです。
 
>誰しもいくらかそんな幼児的な万能感を残しているにちがいありませんが、
>人は生きてる限り弱さから卒業できないのではないでしょうか。
>人は決して自存的な存在ではないからです。
 
にもかかわらず、自分で、コメント削除やコメント欄とゲストブック廃止という小細工によって、なりふり構わず、自存を守ろうと、自力しか使えないのがシャローム氏です。
 
>弱さには恐れ、不安がつきまといます。
>むしろ人の成長、成熟には必要ですが、やはり辛いものがあります。
>いつまでも甘えたり、吠えたりしないで、
>そんな自分に向き合うかどうかが分かれ道のようです。
 
自分に向き合えないシャローム氏は、甘えそのままに、浅きを深く見せようとして、自分のことを他者のことのように見せようとして、泡を吹きながら、針小棒大に書き連ねるのです。それが、少なくとも6年間、変わらぬ彼のやり方でした。
 
「自分に向き合う」という言い方を、かつて、根拠もなく批判者である私に向けてきました。しかし彼は根拠を全く示せないのです。この言い方は、こう言えば済むと思っているのでしょうか、困った時の彼の常套句か口癖のようです。
 
むしろ、前から言っているように、自分に向き合い、自分を見るべきなのは、彼のほうだと思っています。何故なら、大方の彼の言い分には、自分はどうなんだ、と聞き返したくなるからです。つまり、ここもそうなんです。
 
>そんな弱い自分を支え導き、守ってくれる存在が必要ですが、
>他の人や見えるものを当てにしていると、きっと傷ついたり、躓いてしまい、
>依存と支配の罠にはまってしまい、ますます不安に囚われてしまいます。
>本当に信頼できる助け、確かな導き手が必要になります。
 
彼が、トラブルを人のせいにするときに出してきた、不安、依存、というキーワードです。まるで心理学者か精神病理学者のように、実際は、言いがかりの小石を投げるしかないようになっています。妄想教理の捏造で成長拒否に固まって未成熟のまま、また自分の非を人のせいにしています。
 
>「偽りが本物のように思えることがあり、
>また、真理や本物が偽りのように思えることがあります。」
 
自分はどうなんだ、ということを考えないと、すべての問題を他者のせいにして、他者が偽物だという決めつけだけから、このように丁寧語で諭すような薄っぺらな文章を書いて自分の醜さに下手にペンキを塗って、いっそう悪くするしかないのでしょうか。訂正不能の学習拒否の末路を見ている思いです。生まれてこの方、シャローム氏は、作戦の練り直しはしても、本当の反省をしたことがないのではないかと思います。
 
ブログの普通のやり取りをしているうちに、思想や考察を旨としている人にとっては、必ずといっていいほど迷惑になる人なのです。かといって、そのまま受け入れてしまうと、彼に逆らわないこと、つまり、従属をすり込まれて奴隷のような根性で生きてゆくことを、彼に対して肯定してしまうことになるでしょう。
 
しばらく連続して批判の突っ込みを続けると分かります。彼は、真実を追求する議論のできない人です。その身の程を弁えれば、日記的信仰ブログを書くこともできるでしょうけれど、彼は、信仰の先生という立場にしがみついています。そして、すべては、見せかけだけとなったのです。
 
> しかし、弱さは人と人とをつなぐ絆かもしれません。
>強さと弱さ、どちらを大事にして生きているでしょうか。
>むずかしい選択ですね。
 
何をもって難しいと言っているのか、といった大事なところだけは書かないシャローム氏です。本当に自分の弱さを認めて信仰を考えたことがないからでしょう。聖書はキリストを表していますが、シャローム氏は、弱さという言葉面、キリストという言葉面を使って、人前に自分を認めさせようとしてきただけだと思います。
 
>イエスは生ける神を信じ、信頼して生きる弱さを選択されました。
>その道は“ローマ人でなければ人ではない”といわれた政治的権力、
>イスラエル社会の宗教的、社会的権力者によって十字架につけられる道でした。
>十字架の道がいのちの道であることを証しされたのです。
 
彼の文章に、キリストを見たことは一度もありません。つまり、説得力がないのです。自分勝手なシャローム氏にとって、キリストは切り捨てられています。彼がキリスト・イエスのことを書くとき、そこにあるのは、彼の舞台で踊る貧相な大根役者でしかありません。もう、すべて証拠は出ているのです。彼の文章は悪あがきだけになっています。その分、ふてぶてしさが強くなっているだけです。
 
>かつてはユダヤ人でありながら、生まれながらのローマ市民権を持ち、
>イスラエル社会の権力者としてのエリートの道を歩み、
>イエス・キリストを信じる人々を神を汚すものとして憎み、激しく迫害していた
>使徒パウロは次のように書いています。
>「兄弟たちよ。あなたがたが召された時のことを考えてみるがよい。
>人間的には、知恵のある者が多くはなく、権力のある者も多くはなく、
>身分の高い者も多くはいない。 それだのに神は、知者をはずかしめるために、
>この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選び、
>有力な者を無力な者にするために、この世で身分の低い者や軽んじられている者、
>すなわち、無きに等しい者を、あえて選ばれたのである。
 
迫害者であったパウロは、悔い改めて使徒になりました。そのパウロが言っているのです。弱さを誇るともパウロは言っていますが、この意味をシャローム氏は、短絡的にしか取れないので、そのまま「弱さを誇る」の深みを知らず、なんとなくよさそうだからと、そのまま言うタイプの人です。
 
彼は、一度も弱さを見せたことがありません。非を認めたことがありません。罪を認めたことがありません。悔い改めたことがありません。彼は、弱くなるためではなく、弱いからでもなく、何をしてもしなくても、強くて誰にも負けない自分をほしがっているだけなのです。それは、最悪の自己中絶対化として、表れてきたのです。
 
>それは、どんな人間でも、神のみまえに誇ることがないためである。
>あなたがたがキリスト・イエスにあるのは、神によるのである。
>キリストは神に立てられて、わたしたちの知恵となり、
>義と聖とあがないとになられたのである。
>それは、「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりである。
> (新約・コリント人への第一の手紙1章26~31節)

>神の平安がありますように!
 
このような聖句を挙げても、シャローム氏は、納得のゆく説明をしたことがありません。美辞麗句が美辞麗句のまま終わって、それで言い得たと満足しているのです。讃美に利用するだけなのです。それによって、分かっているふうを装い自分を高めるだけで、かえって、いっそう泥だらけになって、無駄なあがきを続けているだけなのです。彼は、神のみ前、ということを分かっていないから、偽善と讃美が同時に表れるという矛盾を気にせずにいられるのでしょう。
 
不全で弱い人間として、罪びとであることを認めて、祈りのうちに、悔いることと、この世ではなく神への従属の姿勢を新たにすること、赦しと癒しを乞い、導きを願う、という信仰には、孤独の悲しみのうちに砕かれた魂がいつも最後にたどり着くところの、絶対孤独ではない時と所があります。そこで信仰者は自分という人間を見つめるのです。
 
そこからは、決して上から教える立場は生まれ得ないのです。
 
 
(2017年09月28日、同日一部修正)
 
 
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