空しい転載記事
 
 その名は不思議(批判対象ブログ)
 あらゆる境遇に対処する秘訣 (批判対象記事)
 2017/9/28(木) 午前 7:21
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28270590.html
 
 転載元:生活の中の聖書
 伝道者の書2:18~26ー神から離れてだれが楽しむことができようか!
 2009/10/27(火) 午後 0:45
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/21898742.html
 
 
シャローム氏によく似たお仲間サイトからの転載記事です。前にも書いたことですが、転載元は、以前はコメント欄があり私は書き込んでもいましたが、シャローム氏に転載され私が批判するようになってから、シャローム氏と同じように、コメント欄とゲストブックつまり書き込める場所を閉鎖しています。転載元は、批判されても目の前にコメントがなければ、思い込みで、批判を無かったことにできる人なのでしょう。転載元も、シャローム氏と同様に、誰とも意見交換をせずに独り言を発表して、人の言うことは聞かず、自分の言いたいことだけを言って、独りで満足するのでしょう。
 
>伝道者の書2:18~26ー神から離れてだれが楽しむことができようか!
>18 私は、日の下で骨折ったいっさいの労苦を憎んだ。
>後継者のために残さなければならないからである。
>19 後継者が知恵ある者か愚か者か、だれにわかろう。
>しかも、私が日の下で骨折り、知恵を使ってしたすべての労苦を、
>その者が支配するようになるのだ。これもまた、むなしい。
>20 私は日の下で骨折ったいっさいの労苦を思い返して絶望した。
>21 どんなに人が知恵と知識と才能をもって労苦しても、
>何の労苦もしなかった者に、自分の分け前を譲らなければならない。
>これもまた、むなしく、非常に悪いことだ。
>22 実に、日の下で骨折ったいっさいの労苦と思い煩いは、人に何になろう。
>23 その一生は悲しみであり、その仕事には悩みがあり、
>その心は夜も休まらない。これもまた、むなしい。

>24 人には、食べたり飲んだりし、自分の労苦に満足を見いだすよりほかに、
>何も良いことがない。
>これもまた、神の御手によることがわかった。
>25 実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか。
>26 なぜなら、神は、みこころにかなう人には、知恵と知識と喜びを与え、
>罪人には、神のみこころにかなう者に渡すために、集め、
>たくわえる仕事を与えられる。
>これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
 
多く持つ者は、また、多くの空しさを抱えるという聖句のようです。そこから、神から離れては楽しむことができないとも言っているところに、空しさを正直に語りながらも、共感を求めているような気がします。25節と26節は空しさを受け入れることの苦悩を思わせます。
 

ここでは地上の生活における満足に目を向ける者たちへの注意であり、それは持ち物だけではない。「あたなの宝のある所に、あなたの心もあるからである。」と言われているからである。

 
地上の生活に目を向けるな、といいたいのでしょうか。だとすれば、これほど空しいことはないでしょう。こういうことを平気で言ってくる、いったい誰が、神や天国のことだけを思いながら生きられるというのか。
 
こういうことを書く人は、この世が嫌いで嫌いでたまらない人で、その復讐心か敵意を神が晴らしてくれると信じているのだろうと思います。このように恨みに基づく信仰の行為は、今、全世界を荒らしまわっているのです。
 

神との関わりから外れている者は、この世の喜びを積み上げ、満たす生き方しか出来ない。
その労苦は、神の御前にはただの労苦であって、その人生はむなしい。

 
他者の空しさばかり、シャローム氏と同じようにボロクソ節で全否定して、自分は、神のみ前に恥ずかしくないとでも思っているのでしょうか。何ということでしょう。実に、自分を除外して他者のみを叱りつけているような書き方で、引用された伝道の書とは大きく異なることに注意していただきたい。
 

私たちは何一つこの世に持って来なかったし、また何一つ持って出てることが出来ない、
結局はそれを残して去って行かなければならないのだ。
この財産のために、骨肉相争いが起こることを私たちは聞き、見ていることである。
このことを考えることは悩みであり、悲しみであり、一日中、心が安息することがない。
これはいつの時代においても、私たちの思い煩いのもととなっているのである。

 
多く持つ者は、死ぬときには、それをすべて手放すのだから、相続争いが起きて悩むのでしょう。私たちの思い煩いのもと、と書いてありますが、相続などないか少ない人もいるし、そういう人のほうが多いのではないでしょうか。したがって、思い煩いのもとは、相続争いではなく、自分が空しくなってゆく人の宿命にあると思います。
 

自分の子孫がきちんと管理し、有効に用いてくれるのならそれはそれでいいのだが、
その保証はない。相続した財産を食いつぶされるかも分からないと思い煩っている姿がある。

 
相続争いだけが思い煩いのもとみたいに考えてしまうと、こういう結論になるのでしょう。私たちは、みな、死んだあと残した財産を食いつぶされるかもしれないと思い煩うでしょうか。深い存在の悲しみを思わないものは、安易な結論を出してきます。
 

ここでこの人物は、神から離れては何一つ喜びがない、
神の元に立ち返るようにと勧めるのである。
そこにこそ人は喜びを、人生の意味を、神とともに歩むことを見出すのだと。

 
空しさにも悲しみにも人間らしい共感を持ち得ない者が書いているようです。そして、信仰の美辞麗句を書いて、すべてが解決するかのように、断言するのです。
 

神との関わりを堅く保つ者には、本当の喜びが与えられ、
日々の労苦も神の御前には決してムダになることがないと。

 
このように、神を信じればすべてOKという空約束を、神の代理のようにするけれども、なぜ、どのように、OKなのか書かずに、言い得たと満足してしまうのです。
 

 箴言13:22
善良な人は子孫にゆずりの地を残す。罪人の財宝は正しい者のためにたくわえられる。

 
>たとえこの人物のように財産を築き上げていたとしても、
>それは自分自身から出たものではなく、
>神からのものであると感謝し、それをしっかり管理し、
>キリストにあって楽しむ者でありたい。
>そして神によって与えられたものに執着せず、有効に用いていくことなのだ。
 
こういう文章を読んでいると、逆に、なんでもかんでも神を讃美すればよいというものではない、ということを切実に感じます。転載元は、こうやって一生、誰の心にも人間として響くことのない月並みな讃美言葉を教え続けるのでしょうか。
 

私たちキリスト者は、パウロが言うようにあらゆる境遇に対処する秘訣を心得ているのだ。
この信仰で歩むのだ。そうでなければ、私たちも、神との関わりから外れている者と同じく、
私たちの歩みはむなしいものとなってしまうからである。

 
使徒であるパウロが言ったからといって、誰もが、と短絡してしまうところに、この転載元の計り知れない空しさを感じます。これだから、シャローム氏のような、世辞の丁寧語と嘘っぱちの聖書語を使う人に会うと、ころっと騙されてしまうのでしょう。うわべの優しさにだけ反応して、自らの深い悲しみと罪に向き合うことができないのだろうと思います。
 
私たちは、あらゆる境遇に対処する秘訣を心得てなどいません。このような豪語は、身の毛がよだつ代物です。ときには転んで傷だらけになることもあるわけで、そういうときに生まれるどうしようもない悲しみから、伝道の書の「神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか」という道を見出してゆくのです。
 
私たちは、一生、未成熟の弱さと悲しみを神にささげて、赦しと救いと癒しと導きを祈り願う者です。これは、道であり途上なのです。「秘訣を心得ている」などと言って、完成した境地を自慢するときから、道は獣道に荒れ地に砂漠に向かってゆくでしょう。
 
パウロでもないのに「あらゆる境遇に対処する秘訣を心得ている」と言うことは、分かっている、見えている、知っている、守っている、ということと同じように、まともな信仰者であるならしないことです。絶対の存在である神が、自分が飼っている自分のものではなく、自分外にいて、自分とは違う御方で、その御方に祈る姿勢を持っているなら、完成や完全無欠や無敵を誇るような強気で物を言ったりしないのがキリスト信仰者です。
 
 
(2017年09月29日)
 
 

 
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