神の恵みの決めつけ
 
 その名は不思議(批判対象ブログ)
 心の平安は神の恵み (批判対象記事)
 2017/9/2(土) 午後 9:30
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28237050.html
 
 (類似過去記事)
 安心、安眠は神の恵み
 2016/6/17(金) 午前 7:46
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27524950.html
 主の祈り
 2015/2/4(水) 午後 5:35
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26365972.html
 
 
シャローム氏が記事を書けば、その分だけ批判記事も増えるのですから、コメント欄とゲストブックのないシャローム氏のブログが、他者の意見を聞いて学習成長する意思を全く持たないことが一層明らかになります。そしてそれは今の彼が、他者の意見を必要としないほどに神聖?なる超常意識のみによって満悦していることを示しています。
 
おびただしい矛盾と詭弁をさらしながら、ここまで訂正不能のままでいられるというのは、もはやシャローム氏を動かしているのは、もちろん信仰ではなく、人間の普通の感性と知性でもなく、反応が単純で無思慮な保身になっているところから、もはや本能だけのような精神性ではないかと思えてきます。
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★
>+++++++++
>「安らかに身を横たえ」

>人にいろいろ言われても、心を主に向けることを学んでいます。
>主に心を向ける人は、また自分の心にも向き合います。
 
自分の心に目を向けない人は、主に心を向けていない、とも言えるでしょう。シャローム氏が自分で書いたと言うのなら、その理由を念頭に置きながら見ていきます。
 
> 詩篇4:7-9
>恵みを示す者があろうかと、多くの人は問います。.
>主よ、わたしたちに御顔の光を向けてください。
>人々は麦とぶどうを豊かに取り入れて喜びます。.
>それにもまさる喜びをわたしの心にお与えください。
>平和のうちに身を横たえ、わたしは眠ります。
>主よ、あなただけが、確かにわたしをここに住まわせてくださるのです。
 
>お米や野菜の収穫を喜ぶ人たち、その喜びにもまさる喜びがあるのですね。
>主よ、わたしの心にそのような喜びを与えてください。
>わたしは一日を終えて、安らかにベッドに身を横たえ、眠りにつきます。
>心が守られ、あなたはそのようにしてくださる方です。
 
いつもそうしてくださるかどうかは分からないのです。自分が眠れるからといって信じれば不眠が治るというような説教をするべきではありません。
 
>《shalomのコメント》

>イエスはよくひとりで祈っておられたようです。
>弟子たちはイエスの言葉を聞き、不思議な力あるわざを見ていました。
>イエスのどこからあのような不思議な言葉とわざが・・・と思っていました。
 
シャローム氏は、救いはどんでん返しの奇跡で起こるというようなことを言っていました。つまり彼は、イエスの不思議な力ある奇跡の業(わざ)にしか注目しません。どこからあのような・・と思い、ついには、自分にも聖霊が降りてきた、と思ったのでしょう。彼は、聖霊体験を主張してきました。彼は、訂正していません。彼の行いは聖霊体験者とは思えない偽善と隠蔽なのですが。
 
>ふとその秘訣はイエスの祈りにあるのではないかと思い、
>私たちにも祈ることを教えてくださいとお願いしたのです。
>イエスが教えられた祈りが“主の祈り”です。
 
恐ろしいことに、シャローム氏は、人間として考えるのではなく、何か特殊な秘訣があるのだと思い込んで、神の領域からの不思議な業すなわち奇跡に対する秘訣を求めたようです。祈れば、聖霊が降りてきて、自分にも不思議なことが起きて救われると思ったのでしょうか。彼は自分という人間を見つめるのではなく、ひたすら、神の業を自分のものにしようと思ったようです。そして聖霊を体験したと言うに至ったのでしょうか。その結果が、他者の意見を削除するという罪と痕跡を隠蔽するという醜い偽善でした。
 
>『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
>御国が来ますように。御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。
>わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
>わたしたちの負い目を赦してください、/わたしたちも自分に負い目のある人を/.
>赦しましたように。
>わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください。』
>(新約・マタイによる福音書6章9~13節)
 
>主の祈りは前半と後半に分けることができると思います。
>私たちの切実な祈りは後半の祈りではないでしょうか。
 
なぜ後半がより切実だと言うのでしょう。信仰者の祈りとしては、全部大事な祈りです。シャローム氏は、人が人の罪を許す後半を重視しているのでしょうか。誰より自分を赦すことが大事だとでも説きたいのでしょうか。
 
>『わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
>わたしたちの負い目を赦してください、/
>わたしたちも自分に負い目のある人を/赦しましたように。
>わたしたちを誘惑に遭わせず、/悪い者から救ってください』
 
>この祈りがかなえられるとき、私たちは安心し、
>安らかに眠ることができると思うからです。
 
シャローム氏は、戒める神についても懲らしめる神についても書こうとしません。彼の神は、何でも赦してくれて救うだけの神?のようです。彼は、この世の名誉を守るという誘惑にずっと負けて、自らの選択で悔い改めない悪いほうを選び、さらに人の言うことを聞かなくなりました。それでも赦せと神に言いたいようです。
 
>しかし、この祈りがかなえられても、
>安心、安眠はあまり長続きしないようです。
>ですから、すぐに心が見えるものにとらわれてしまうのです。
 
>主の祈りの前半は次の通りです。
>『天におられるわたしたちの父よ、/御名が崇められますように。
>御国が来ますように。
>御心が行われますように、/天におけるように地の上にも。』
 
>この祈りは次のような意味ではないかと思います。
>まずなによりも主なる神を崇め、信頼し、明け渡しゆだねる祈りです。
 
神に明け渡しゆだねて、彼は、人を侮辱したり、人の意見を消して反対などありませんという体裁を偽装したと言うのでしょうか。ここに及んでもまだ、非を認めず、しらばくれるつもりのようです。このような説教の記事を書く資格はないと思いますが。
 
>あなたの支配と御心がなりますように、
>なぜならあなたの支配と御心が最善だからです。
 
その最善の支配と御心に背いて罪を犯し偽善を働いて、かつ、悔いることがないシャローム氏は、このような記事を書く資格はありません。最善を勧めながら裏切る人です。
 
>あなたが人の手の及ばない天においてなされているように、
>この私が生きているこの地においてもなしてください。
 
上のほうに既に書いてある主の祈りをなぞっているだけに思えるのですが。
 
>イエスはご自分の十字架の苦難と死を前にして祈っておられます。

>「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。
>しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
> (新約・マタイによる福音書26章39節).
 
なぜ、ここで、この聖句を引用するのでしょう。まさか、シャローム氏が、自業自得のくせに、同じ杯を受けようとしていると言うんじゃないでしょうね。
 
御心のままに、と祈れば、平安が恵まれるという短絡でしょうか。御心のままに、救われる者は救われ、報いを受ける者は受けるのです。そのことについて、なぜ生まれたかを含めて、人は、生きて答えを与えられることはないでしょう。シャローム氏も、私も。
 
必ずしも善と悪がはっきり区別できるとは限らないように、また、時空の永い目を持たない人間にとって、与えられる試練と恵みが同値であるように、善の報いも悪の報いも救いなのかもしれません。一人の限りある人間にとって、善も悪も、いずれ終わるからです。
 
>「イエスは答えられた、「あなたがたは今信じているのか。.
>見よ、あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、.
>わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。いや、すでにきている。.
>しかし、わたしはひとりでいるのではない。
>父がわたしと一緒におられるのである。.
>これらのことをあなたがたに話したのは、
>わたしにあって平安を得るためである。.
>あなたがたは、この世ではなやみがある。.
>しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに世に勝っている」.
>(新約・ヨハネによる福音書16章31~33節).
 
>わたしたちの本当の安心は生ける神から与えられる恵みではないでしょうか。.
 
世に勝ったキリストを、裏切っているという自覚が、まだシャローム氏にはないようです。彼は、自分で勝とうとして、自分を守るだけの都合のいい神?から恵みを与えられたいようです。その神?から恵みは来たのでしょうか。事態は全然改善していないようですが。今のシャローム氏が出せるのは勇気ではなく、怒気と悪意でしかないことが、度重なる記事と、彼の行動から、明らかになってきました。
 
杯を去らせてくれるようにキリストが祈ったのは、キリストが生身の人間の体を持っていて、痛みと苦しみと悲しみを感じていたからでしょう。これによって、キリストは、人間の痛みと苦しみと悲しみに共感を示し、それを負うたのだろうと思います。キリストは、奇跡を起こしたが、それよりも大事なのは、誰よりも人間に共感し人間を憐れんだ御方だということです。
 
そのような死の状況が迫っているときにも、先のことを告げずに死んだら動揺も激しいだろうと思われたのか、自分の命より残してゆく人々のことを心配して励ましていることに注目してください。死を覚悟したキリストの切実な言葉です。平安という言葉だけで安易に引用したり、安っぽい讃美を言って解説になる場面ではないのです。
 
 
(2017年10月01日、同日一部修正)
 
 
 
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