言葉の逆切れ現象
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 生きる喜びと豊かさは神から与えられる恵み
 2017/8/4(金) 午前 8:11
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28199388.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 豊かさと貧困
 2012/2/4(土) 午前 10:03
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22164184.html
 
 
政治と社会の問題と、信仰の問題を、混同して語る、政治家&預言者に同時になりたいかのような、シャローム氏の筆致ですが、はっきり言って、自分のことさえ、飾らないで語ることはできないでしょう。奇跡話と妄念の泥沼にどっぷりつかって溺れて泥を大量に呑み込んだまま語るシャローム氏です。
 
>今日の聖書の言葉です。

>わたしは日の下に悲しむべき悪のあるのを見た。
>すなわち、富はこれをたくわえるその持ち主に害を及ぼすことである。
>またその富は不幸な出来事によってうせ行くことである。
>それで、その人が子をもうけても、彼の手には何も残らない。
>彼は母の胎から出てきたように、すなわち裸で出てきたように帰って行く。
>彼はその労苦によって得た何物をもその手に携え行くことができない。
>人は全くその来たように、また去って行かなければならない。
> (旧約・伝道の書5章13~16節)
 
伝道の書については、前にも述べたように、人間の限界と不全による、はかなさ、空しさ、かなしみについて、共感できるところなのですが、シャローム氏は、教条でしか捉えず、またしても、極端な、全か無の話を書いています。
 
>かつて日本は外国に一番たくさんの資産を持っている、
>世界一のお金持ちといわれました。
 
経済大国と言われていた時代があったようだが、多く富は偏っていて、さらにバブル崩壊もあったわけで、安定もしていないわけです。世界一のお金持ちとまでは言われてなかったような気がします。
 
シャローム氏が、バベルの塔に喩えたときも、うんざりしましたが、今回、私が宗教性も文学性も高いと思っている伝道の書を、単純な思い上がりによるバチが当たったみたいな話として、悪の代名詞みたいに彼のボロクソ節のネタにされるのは耐えがたいものがあります。はっきり言って、人間共通の無常や空しさとして受け取れない彼の病理を感じるだけです。
 
>21世紀は日本の世紀だといわれ、世界中の国々から羨望の的とされていました。
>しかし、今は既に21世紀となり、日本の現実はいかがでしょうか。
 
いかがでしょうか・・など、疑問文は、シャローム氏の場合、全く他者の意見など求めてはおらず、ただ、自分が高みから豪語したいだけだということが、今までの批判から明らかになっています。
 
21世紀が宗教の世紀というのは聞いたことがあり、良い意味かと思ったら、とんでもない意味で現出したことはテレビで見て聞いていますが、日本の世紀だというのは、どの国で言われていたのでしょう。大袈裟に持ち上げて、どん底に落とす、という、シャロームのボロクソ節がまだ続くのでしょうか。
 
ちなみに、「21世紀は・・の世紀」と検索したら「・・」の部分には、水、人権、環境、心理、魔法、光、中国、アフリカ、などが出てきました。水が一番多い印象でした。
 
>今日の聖書の言葉は傾聴に価する言葉ではないでしょうか。
 
自分で決めつけておきながら、この言いぐさ・・。聖書と聖句に対しては、受け取れるか、分からないか、が読者の態度であって、傾聴に値するかどうか、シャローム氏ごときに評価する権限も能力もない。神についての書物が聖書だけであることを考えると、シャローム氏は、神は傾聴に値する、と同格の立場から言っているようなものです。何よりも彼の立場が、高みに思い上がっており、キリスト者としての敬虔な立場ではないことの証拠でしょう。
 
>いくらこの世の富に豊かになって、サア、安心だ、
>飲み食いして楽しもうと言っても、いつ富が失せ去り、
>またいつ私たちの命が取り去られるかわからないのです。
>今は富んでいる時には想定外だった将来の生活すら脅かされています。
 
そういうことは、今に始まったことではなく、もっとひどいことが、戦争の時代に起こってきたわけです。いつもワンパターンのボロクソ節です。自らを高めるために、人心を脅かしているのは、シャロームさん、あなたです。
 
>だから持っているお金も手放せず、まき散らされるお金も循環せず、
>人の心と社会を活性化することが出来ないのです。
>どんなにたくさんのお金をまき散らしても、希望と安心は手に入らないのです。
>アベノミクスは幻想であり、アベノリスクです。
 
アベノリスクという言葉は何度も書かれているもので、もちろんシャローム氏のオリジナルではなく、パクって書いて、自分の言葉であるかのように断定するのに使って、政治評論家気取りなのです。丁寧語で慇懃無礼なだけで、本当の礼儀は弁えないシャローム氏です。
 
>人は生ける神によって創造された豊かさの中で生きるものとして造られました。
>人が神と人に仕えて生きる時、
>人は生きる喜びと豊かさを楽しむことが出来るのです。
>生きる喜びと豊かさは神から与えられる恵みなのです。
>人は生ける神のすべてはよかったと宣言された神の創造の恵みのなかで
>神を喜び、楽しみ、神への感謝と礼拝をささげて生きる者なのです。
 
そして、唐突に、社会の話に、平気で信仰の話を、前提も語らず、ぶち込んでくるのが、シャローム氏の、変わらぬ、説得力を考えない筆致です。神の啓示だという意識がそうさせるのか、しかし、彼は、神の啓示を受けたとは思えない卑劣さを今まで露呈してきました。
 
>しかし、人が神の言葉を退け、
>自分をまるで神であるかのように生き始めて以来、
 
誰のことでしょう、彼自身のことならわかりますが、また全か無で、他者一般を断罪して、人間に恵まれた知性と感性を見ようともしないシャローム氏です。これで、伝道の書を読めるわけがありません。
 
>神との交わりも、人との交わりも失われ、
>物や知識の豊かさによって使えば尽きてしまうような豊かさを得ようとし始め、
>天に届かせようとバベルの塔を築く権力者ニムロデは私たちの姿です。
 
1行目はシャローム氏に当てはまります。
全か無の、無であります。私たちの姿というなら、あなたも悔い改めなくてはいけませんが、今まで、そういう様子は全くなかったのです。彼は、聖書を悪用して、ふりまわして、人が関われないところの、神の奇跡によって、無条件で、有無を言わさぬ救い、という自説を豪語します。天に届かせようとバベルの塔になっているのは、シャローム氏です。
 
私たちの姿、という私たちに、シャローム氏は、自分を含めていません。含めていたら、罪悪感や悲しみの共感があるはずですが、彼には全く見られないことが根拠です。謙譲を気取って言ってみたが、彼を通すと、傲慢を他者に向けるだけになっています。彼は、この、私たち、という言い方を、自分の責任回避のために、よく使うので、注意が必要です。実際は、自分の非を認めたことのない人です。シャローム氏は、表面的な言葉面と、本音が乖離している、とても白々しい人です。
 
>しかし、その豊かさは表面的な、偽りのものでしかなく、心をモノ化し、
>気づかないうちに、言葉の通じないバビロンという混乱の世界としたのです。
>富と権力によって人の心は腐敗し、白蟻に食い尽くされているのですが、
>表面は何事もないように見えていても内側ではすでに崩壊が始まっていたのです。
 
心を損ない、心も信仰もモノ化して、モノのような教条でしか語れず、腐敗し食い荒らされて崩壊が進んでいるのは、他でもない、シャローム氏自身なのです。シャローム氏が書くと、こういう言葉の逆切れ現象が起こるのです。思い上がって放った言葉は、言った人に返ってくるのです。
 
>人は貧しい時には豊かになりたいと願い、
>豊かになれば、貧しさはなくなり、生活の問題は解決するかのように思いますが、
>ところが、偽りの豊かさの中の深刻な貧困、飢餓を生み出してしまうのです。
 
人間を単純に欲望の虫と見なす短絡ですが、これが、よく当てはまるのは、他でもない、シャローム氏自身なのです。他者も聖書も信仰も無視して、コメント欄を廃止して刺激のない環境で、偽りの豊かさを貪る安穏境地で、捏造した教条に従い、それを広めようとしているのは、他でもない、シャローム氏自身なのです。しかも、それで自己満足して、それを神の平安と呼んだりするのです。
 
>この貧困は人の心のモノ化による貧困ですから、
>人の心は飢え渇き、自分が自分であることを喜ぶことも出来ず、
>他の人との関係も失われてしまい、命は死海のように枯渇してしまうのです。
 
ボロクソ節全開になっています。いつも問われるべきは、自分はどうか、ということですが、彼の心性には、そういう問いはないようです。学習し成長してゆく意欲と意志がまるでないシャローム氏ですから、言葉だけ、自己破壊的に空回りしています。
 
>富、権力は麻薬のように、人の心を麻痺させてしまう力を持っています。
 
お前が言うな、ということです。シャローム氏は、独善の権威主義者です。人の心を麻痺させるような嘘をついて、実際は、自分の心が鈍化し麻痺しているのに気づきません。
 
>麻薬がますます麻薬への欲望を増大させていき、人の心と身体を破壊してしまうように、
>真剣に生きることも、互いに愛し合うこともできなくしてしまうのです。
 
彼の心に起こってきたことです。他者への怨念と、自己保身の欲を増大させてゆき、人格を破壊してしまうように、・・2行目はそのまま彼に当てはまります。
 
>次第に良心の痛みも失われ、自分さえ良ければという生き方が蔓延しています。
>そして、こんなことを見聞することにも慣れてしまっているのです。
>ただ本能のままに生きている獣と同じであれば仕方がないとも思われますが、
>弱肉強食のような動物の世界にも秩序はあるのです。
 
1行目は、そのまま、シャローム氏に当てはまります。まるで、自分のことを書いているようですが、彼は他者のことを言っているつもりなのです。言葉が破壊的に逆切れしています。どこかに蹴飛ばしてやりたいほど、哀れです。
 
彼は、私が出会った人々の中で、最も本能的な人です。しっとりと悲しみに沈むことも、罪悪感によってじっくり反省することもありません。弱肉強食の世界にあるのは、動物の本能として、必要以上は殺さないということでしょう。秩序と呼んで、人間社会と比べるつもりでしょうか、彼は何をわけの分からないことを言っているのでしょう。
 
>しかし、私たちの命も人格も生ける神によって与えられ、
>愛され、生かされている、人間の尊厳性を知ることが出来るなら、
>そのような生き方は神の尊厳をも汚すことを知ることが出来るのです。
 
シャローム氏は、それを知らない典型と言えます。私が知っている限り、彼は自分以外の人間とその尊厳を全く大事にしたことがありません。このように、彼に限っては、多くのことを全否定できる、という根拠が積まれています。彼は、それを見ない、そして知らない、それで、信仰を語ろうというのですから、あきれます。
 
>人の命と人格のルーツである神との関係と交わりを見失い、
>人としての真の喜びも無く、
>生きる意味も目的も見失ってしまっている私たちに、
>イエスさまは生ける神の愛を明らかにし、新しい命を与え、
>生きる力と勇気、喜び、希望を回復してくださいます。
 
この書き方は、私たち、から、自分を除外しているところの詭弁であることを、何度も私は書いてきたのですが、彼の同語反復の前では無意味のようです。ですから、誰も彼に巻き込まれることのないように、間違っても彼の言うことがキリスト教やキリスト信仰だなどと思わないように、私は今書いているのです。これは、シャローム氏の、神への、悪い政治家のスピーチのような、リップサービスであることが明らかになってきたのが、私の批判の6年間でした。彼は、何も回復されていません。
 
>ほむべきかな、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神。
>神は、その豊かなあわれみにより、
>イエス・キリストを死人の中からよみがえらせ、
>それにより、わたしたちを新たに生れさせて生ける望みをいだかせ、
>あなたがたのために天にたくわえてある、朽ちず汚れず、
>しぼむことのない資産を受け継ぐ者として下さったのである。
>あなたがたは、終りの時に啓示さるべき救にあずかるために、
>信仰により神の御力に守られているのである。
>そのことを思って、今しばらくのあいだは、
>さまざまな試錬で悩まねばならないかも知れないが、
>あなたがたは大いに喜んでいる。
>こうして、あなたがたの信仰はためされて、
>火で精錬されても朽ちる外はない金よりも
>はるかに尊いことが明らかにされ、イエス・キリストの現れるとき、
>さんびと栄光とほまれとに変るであろう。
> (新約・ペテロの第1の手紙1章3~7節)
 
大事なところは、解説せず、聖句を引用して、讃美の根拠のつもりなのでしょうか。文章には文脈というものがありますから、これは、聖句を他人事のように振り回す悪用であり、聖句を真実を伴わない空疎なリップサービスに変えて悪用しての責任回避であります。また、彼が、おそらく、毎日、神に捧げているのも、このような、神へのリップサービス?、なのでしょう。神の前に、人間としての身の程を弁えないと信仰は化け物になるという典型です。
 
>神の平安がありますように!
 
彼のいるところ虚偽の平安が有り余っている、不感不応の唯我独尊のシャローム氏でした。口に大袈裟な讃美を持ち、顔に偽りの薄笑いを持ち、頭に処理できない教条を持ち、もてあまし、整えることができずに、突進しては、石板にも新聞にも解答用紙にもコメント欄にも独り言にも、記憶にも予測にも、理路にも論理にも、情緒にも感性にも、耐えられず、すべてを消し去った後の壁に御託をぶつけて、いちいち返されている、廃墟でひとり転がる瓦礫のシャローム氏なのです。
 
最近、シャローム氏は、自分が書いたのか、どこからか引用したのか、ということをだんだん明確にしなくなりそうな傾向があります。表は丁寧、裏は汚い、という彼のやりそうなことですが、こちらは、ボロクソ節などの彼の筆致を見て判断してゆくしかない場合が多くなりそうです。
 
 
(2017年10月25日)
 
捉える(とらえる)
貪る(むさぼる)
捏造(ねつぞう)
瓦礫(がれき)
乖離(かいり)
弁える(わきまえる)
 
 
 
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