命の道と空約束
 
 
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 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 いのちの道と死の道の分かれ道
 2017/10/28(土) 午前 11:44
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28312379.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 命と死の分かれ道
 2016/3/13(日) 午前 10:05
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27321120.html
 
 
引用文章も、シャロームのコメントも、意味不明です。超常信仰というのは意味不明なことに、もっともらしい言葉をくっつけて、分かってるふうに見せかける特徴があります。一様に、神の前で最も嫌悪すべき、知っている、という気分だけで書くという特徴を持っているようです。
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★
>+++++++++
>「主を尋ね求める人」

>会ったこともなく顔も知らない人で、
>その人の名前は知っているという人がいますか。
>その人のことについてもっと知りたいとおもっているひとは
>多少は知っているわけですね。
 
人のことを言っているようです。
 
>詩篇9:10
>み名を知る者はあなたに寄り頼みます。
>主よ、あなたを尋ね求める者を、
>あなたは捨てられたことがないからです。(口語訳)
 
今度は神のことを言っています。同じ扱いなのでしょうか。
 
>御名を知る人とは主を知っている人です。
>不思議なことですが、
>主を知る人はもっと主を尋ね求める人となります。
 
そうとは限りません。主を決めつけて、どんどん嘘を塗り固めてゆく人もいます。
 
>そのような人は主に知られており、
>決して見捨てられることはありません。
>ハレルヤ
 
そういう空約束を信じないでください。悔い改めによる赦しの機会は常に与えられているということです。何をやっても救われるということではありません。聖書に出てくるパリサイ人はキリストの敵として書かれています。
 
ここを誤解~曲解して、自分は何をしても赦され救われると信じている人がいて、この世で最も醜い有様になっています。この人は、神もキリストも知らないまま、救いの教条をねつ造して、しがみついて、何を言われても、同じことを繰り返して、悔いることも反省することもなくなり、もはや、人間味をすっかりなくして、機械的教条の絡繰りの罠と化して、他者を巻き込もうと企むワームのような存在となっています。
 
>聖書のみ言葉を黙想するのは、神を尋ね求めることにもなります。
>このみ言葉メールは、
>このことで多少ともお役に立てればと願っています。
>主との交わりが深められ、主により頼む信仰が養われ、
 
ここまで、意味不明のように思えます。なぜ、見捨てられない、尋ね求める人となる、などと、このようにも軽々しく、保証を与えるようなことを平気で言えるのでしょう。そうでない典型のような人が、今も教条主義に思い上がったまま、現代のパリサイ人として、悪しき企みの一環として、同じ教条を繰り返して、その有害性は、全く改善されず、極めて迷惑なだけの存在となっています。
 
>さらに自分が変えられ、身近な人間関係が変えられていくことを
>目指しています。
 
しかし、誰か知らないこの引用元でさえ、自分が変えられ、人間関係が変えられていくことを目指す、と書いています。であるのに、シャローム氏は、信仰ではなく教条を訂正不能にしたまま、一寸も変えられることを拒否し、独り安穏境地で、成長しない時間を死に向かって消費し続けているのです。
 
>《shalomのコメント》
 
>今日ほど知りたいことを容易に知ることのできる時代はなかったと思います。
>パソコン、スマホさえあれば、どんな情報でも簡単に手に入ります。
>一方知るべきことを知ることは難しくなっているようです。
 
知るべきことを知ろうとしないシャローム氏が言っても意味などないのです。
 
>あまりに虚実混淆の情報が氾濫し、変化が激しいからです。
>それらの情報に呑まれてしまい知っているつもりになりやすく、
>物事や人が顔と顔を合わせて知り合うことが恐れられ、失われているようです。
 
顔を合わせるどころか、言葉を交わすことさえ、自分に都合が悪いと思えば頑迷に拒んだまま、苦い思いが何よりも嫌で、甘い気分に浸っていようと、同じ教条を呪文のように唱えているのです。その結果、新鮮な真実というものが、その者からは、どんどん見られなくなって、嘘でできた人格の薄笑いだけが、柔和か何かのつもりで、ネットの陰部を漂っているのです。
 
>“人はその妻エバを知った。
>彼女はみごもり、カインを産んで言った。
>「わたしは主によって、ひとりの人を得た」。”(創世記4章1節)
 
>“人はその妻エバを知った”とは
>アダムはエバと出会い、交わったというのです。
>それは単に身体だけではなく、人格的な出会いであり、
>交わりでした。
>人が知るとは全人格的な出会いと交わりだというのです。
 
一方、シャローム氏のように、知ろうとしないのは人格を喪失してゆく過程です。
 
全人格的な出会いという言葉の説明が不十分で、恐らく、言葉だけ知って、その大仰さを使っているだけなのだと思います。アダムとエバは罪を犯し、それが、人類の原罪として語られている創世記ですが、シャローム氏は、どうも、これもあってはならない罪のように語って、自分にはない、皆も無くさないといけない、というような奇怪な説教をするのでしょうか。原罪は避けられないのですが。
 
>ふたりは知り合い、ひとりの人、カインを得ましたが、
>ふたりの子どもというよりも、ひとりの人であって、
>主によって与えられたと言っています。
 
>2章25節には「人とその妻とは、ふたりとも裸であったが、
>恥ずかしいとは思わなかった。」と、
>ふたりの間には恥と恐れがなかったのです。
>このように聖書は私たちに
>「知ること」の本来の意味を教えているようです。
 
おかしな話をしています。アダムとエバのことを「知ること」の本来の意味と言いながら、
 
>しかし、聖書は人がどのようにして本来の知ることを
>見失ったかを告げています。
>主なる神はエデンの園で生きているふたりに告げられました。
>「善悪を知る木の実」から取って食べてはならない、
>それを食べると死ぬと。
>人が神との関係と交わりを退け、自分の欲望と、思いのままに、
>生き始める時に、
>それを食べると死にますと告げられたように、
>死の力が支配し始め、人は神の恵みと知ることを
>見失ってしまうというのです。
 
アダムとエバが見失ってしまう話をしています。彼の言う「知ること」の意味は不明です。恐らく、彼は、何も分かっていないから、良さそうな言葉を並べて、体裁を整えたつもりで、いつものように自己矛盾に陥っていると思われます。
 
>人は裸であることを恥じ、恐れを覆い隠すために、
>イチジクの葉っぱとして知識と知恵を追い求め、
>枯れてしまうイチジクの葉をもって
>我と互いを隠しながら生きるようになったのです。
>その結果、偽りの「知ること」という知識と物にあふれ、
>人の心と世界は恐れと不安が支配するようになりました。 
 
このように、本来の意味で出会った、と書いた二人が、ここでは、偽りの「知ること」は恥ずかしい、という話のネタにされています。原罪という捉え方ではなく、アダムとエバの愚かさで罪を犯すから、そうならないように、というスタンスで語って、また自己矛盾に陥っているのです。
 
>「彼らは知識を憎み、主を恐れることを選ばず、
>わたしの勧めに従わず、すべての戒めを軽んじたゆえ、
>自分の行いの実を食らい、自分の計りごとに飽きる。
>思慮のない者の不従順はおのれを殺し、
>愚かな者の安楽はおのれを滅ぼす。
>しかし、わたしに聞き従う者は安らかに住まい、
>災いに会う恐れもなく、安全である。」
>(旧約・箴言1章29~33節)
 
アダムとエバを悪者にしてしまった結果として、アダムとエバのようにならないようにと、箴言を並べることしかできなくなっています。聖書のアダムとエバは、人類の祖という位置づけなのですが、シャローム氏は、先祖をボロクソ節の標的にしてしまうのです。これが、自分を見ない者の末路ということです。
 
知識を憎み、主を恐れることを選ばず、戒めを軽んじ、はかりごとに飽き、思慮のない者の不従順、愚かな者の安楽、これら皆、シャローム氏にピッタリ当てはまることばかりです。
 
アダムとエバは、今の私たちの姿だ、という自覚ができていないから、蛇の与える木の実を、ますます見分けがつかないまま、神が与えるものと勘違いして、美味しい美味しいと好きなだけ食べて、満腹になって、神の平安だと錯覚して、満足げに涎をすすりながら、体も心も壊しているのがシャローム氏なのでしょう。
 
批判されていることを知りながら、弁明も反論もせずに、無視して、それまでと同じ愚かをを繰り返しながら、受けず返さず言い張ることの、人間にとって致命的なアンバランスと矛盾を省みることもなく、成長の可能性を自分で拒んで、神の御心は自分にありという結論だけを念じて念じて、神と思い込んだ自我の教条をやたら讃美して、生涯にわたる神の救いの予定調和をでっちあげているシャローム氏なのです。
 
逃げの姿勢と、無視の姿勢と、言い張りの姿勢と、企みの姿勢とが、毎回、シャローム氏の、卑怯と、不感不応と、不法と、悪意とを、シャローム氏自身の書いた言葉で、証しているのです。
 
戒める神を信じないシャローム氏は、懲らしめる神に出会っても、逃げ回って、証拠を消そうと企むばかりで、安らかに住まうのではなく、刺激を遮断して、反応しない安穏境地の中に埋没して、ここにおいても、なお、それが、災いに会う恐れのない安全だと言い張ろうとしているのです。あまりにも浅はかな、この者の、ちょっと考えれば滅裂だと分かる独善教条に、惑わされることのないように願ってやみません。
 
 
前の記事ですが、
 
 (批判対象記事)
 日本人の死生観と欧米人の死生観のちがい。
 2017/10/28(土) 午前 9:36
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28312218.html
 
 
>《shalomのコメント》

>日本と欧米における寝たきり老人の問題、終末期医療、死の看取り方の違いは
>日本人の死生観と欧米のキリスト教信仰による死生観の違いに理由があると考えています。
 
誰が考えているのですか。シャロームさんですか。だとしたら、それはまたしても、全か無の、全で、死生観を断じているのは、単純すぎると思います。単一の理由で説明できることでしょうか。どちらの国も、単一の死生観ではないし、超合理的で非人間的なところや、キリスト教的先入観のまま頑固なところなど、よくないことがいっぱいあるでしょう。
 
第一、キリスト教信仰だと言い張っているシャロームさんは、死のみならず、世間体の失われるのを、神よりも、恐れて逃げ回り、証拠を消し去って、ますます、目も当てられないありさまとなり、死生観どころではないはずです。何を余裕ありげに、根拠もなく資格もなく信仰もなく、独善を語ろうとするのでしょうか。今までに積まれた数々の証拠が、シャロームさんの信仰と人格の惨劇を物語っているというのに。
 
>日本人の宗教では死を穢れとして忌避し、キリスト教においては生きることも死も
>万物の創造者である生ける神への信仰によって肯定的に受容されます。
 
だから、何をキリスト教の立場で語れるというのでしょう。しかも、全か無の、また全で、画一的に語れるものではないでしょう。シャロームさんは、肯定的に受容できるのでしょうか。自分が分からない信仰や聖書のことでさえ、分からないといえず、おびただしいごまかしを貼り付けて、すなわち、詭弁だけで、分かったかのように振る舞おうとする態度が見え見えです。それは、肯定でも否定でもなく、嘘っぱちの言い逃れなのです。
 
そのように生きていて、神ならぬもののために、逃げ回っているシャロームさんが、どう考えても、死を肯定的に受容できるとは思えません。死の実感がないことをいいことに、見せかけの余裕を示しても、嘘がバレバレなのです。これまでの罪と偽善が、シャロームさんを慕って、生から死へと向かって、追いかけてくることを、いかにごまかしても、いずれ知ることになるのです。
 
死ぬ、という人の有限の前に、また有限の向こうに、心の用意ができる人はいないのだから、シャロームさんが、肯定的に受容されます、と言って、それを真に受けて、偉いと言ってくれる人は、シャロームさんのせいでイエスという言葉面しか言えなくなったお仲間以外には、いないのです。シャロームさんの見せかけは、もうこりごりです。かつても、今日も、ずっと変わらず、白々しい嘘つきにしかなれないのですね。
 
 
(2017年10月29日、同日一部修正)
 
絡繰り(からくり)
罠(わな)
企み(たくらみ)
安穏(あんのん)
涎(よだれ)
 
 
 
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