業(ごう)の日
 
 
真善美を知るのは全知であり
真善美を行うのは全能である。
 
不変の真善美を人は知らないから
不変の真善美を人は語れないが、
 
人は真善美を求める心を知っている。
求めていることを
真だ、善だ、美だ、と言っている。
ときにそれは偽善だったりもする。
 
ある時に受けた心の揺さぶりを
人はその時のまま保てないからだ。
 
真善美を神と呼んだものだから
全知全能の神は、神は、神はと
自分の熱心さをひけらかすように
讃美しまくる偽善者が出てくる。
 
神を対象化した時から
人の世界の様々な言葉を使うことを
よこしまだと思うようになり
習い覚えた教理を繰り返すだけになってゆく。
 
神と呼ぶなと言えば
別の言葉をひねり出すだろう。
預言者以上が唱えるところの
例えば、アバ、父よ
 
神と呼ぶから安易に神格化する。
父と呼ぶから安易に人格化する。
 
それは人間の業である。
だから神と呼んでも呼ばなくてもいっしょだ。
 
有能な人格者を呼ぶように
親しく交わっているつもりになり、
そのように自分もなろうと気取り始める。
これも業である。
 
名前が実の見せかけを作るような
人の言葉は業である。
 
ならば神を言葉で表すまいと思う、
その短絡も業である。
 
しかし真善美に憧れる者は
間違いに気づいても
真善美への憧れを捨てることができず、
到達できない相手に祈ることを覚えた。
 
到達できない自分の未熟さに
耐えられないとき祈りが生まれる。
 
神は不変だが、
人は可変であることが必要で
修正可能の我に返り、
我を変え得る状態を救いという。
 
人はその時の正直だけで語れる告白の場を持つようになり、
 
祈りが始まる。
 
 
(2017年10月30日)
 
 
 
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