宗教宣伝
 
 
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 その名は不思議
 管理人:shalom
 
 (批判対象記事)
 「こんなもんでしょう」から「まさか」の人生
 2017/8/1(火) 午後 6:11
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28195769.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 「まさか」の福音
 2016/8/29(月) 午前 8:01
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27661063.html
 「まさか」へ飛躍の道
 2013/8/19(月) 午前 9:50
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/24739561.html
 
 転載元:
 shirasagikaraの日記
 2013-08-19 「こんなもんでしょう」から「まさか」へ
 
http://d.hatena.ne.jp/shirasagikara/20130819
 
 
私のPCがクラッシュしている間にアップされたシャローム氏の記事を批判しています。転載記事のようですが問題満載の記事です。シベリア抑留体験者本人の承諾は得ているのでしょうか。宗教宣伝に使われた体験者の立場から見れば、相当無礼な記事ではないかと思います。
 
>「こんなもんでしょう」から「まさか」の人生へ(2013.8.19)

>「まあ、こんなもんでしょう」が口癖の人がいた。
>「きょうは猛暑ですね」「まあ、こんなもんでしょう」。
>「寒いね!」「まあ、こんなもんでしょう」。
>これではにべもない。感動がないからつまらない。
>ただ暑さ寒さも喜怒哀楽さえも、
>ありのままに受け入れるガマン強さには感心した。

>この方は1945年夏の日本の敗戦時、旧満州の兵営にいて
>ソ連(ロシア)軍の捕虜になり、数年シベリアへ送られた。
>60万人の日本兵・軍属が連行され、極寒と栄養不良と強制労働で
>5万人が死んだ。巨木を切り出し凍土に鍬を撃ち込む。
>そのときの経験が「こんなもんでしょう」という諦めに
>なったのでないか。逃げられないし、逆らっても、
>どうなるでもないという現状肯定だ。
>だから、その体験に裏打ちされて、何が起こっても動じない。
>あわてない。辛抱強い。
 
まず、「こんなもんでしょう」という口癖が、本当にシベリアの体験からきているのか、という問題がありますが、その口癖を、よくない例として否定して、キリスト信仰は「まさか」なのです、と言って、転載元の言うキリスト信仰?をたたえるネタにしている、という問題がより大きいでしょう。文中の「ありのままに受け入れるガマン強さ」・・これが決して、ほめ言葉にも、いたわりの言葉にも、なっていないということを見逃してはいけません。
 
シャローム氏が、丁寧語を身につけても、表面的に丁寧なだけで、実のある思いやりや気遣いや配慮ではないために、自らの反省や謙遜や謙虚や敬虔に全く結びついていないのと同じでしょう。丁寧に書いても、関わる人間に対して、かえって、がさつで、無礼になる、という慇懃無礼の例になります。
 
シベリア抑留者に対して、大変な経験をなさったから、という思いやりの立場ではなく、あれは信仰上わるい、自分は信仰上よい、という教条的判断だけで、話を作って、始めて、進めているうちに、信仰の名のもとに蔑みが育っていることに気づかない例になります。
 
>奴隷がそうだ。過酷な命令に反抗できないし、しない。
>「まあ、こんなもんでしょう」は、
>一番低い生活を強いられた経験からの発言だ。
 
酷い目に遭ったのでしょう、という、思いやりの共感が欠けていると思います。その上で、シベリア抑留体験を、奴隷の服従に擬しています。奴隷への悲しみの共感も書かれていないようですから、これでは、一番低い生活に慣れてしまうと、こうなってしまう、という軽蔑にも近い書き方になるということです。悲しみの共感抜きで、情感のない教条のみで言葉の類似を考えると、このような不用意な発言になるのでしょう。
 
そういう書き方が全開になっているのが、他者に共感することを否定して超常の奇跡ばかりを信仰として出してきて、自分を悪から除外したところの、シャローム氏のボロクソ節なのです。
 
>しかしキリスト信仰は、「まさか」という驚きから始まる。
>神の子が人間の姿をとった、「まさか」。
>無罪のイエスが有罪になった、「まさか」。
>そのおかげで、有罪の人間が無罪にされる、「まさか」。
>修行を積んででなく、そのまま、イエスを信じるだけで、
>罪ゆるされ、永遠のいのちが約束される、「まさか」。

>「まあ、こんなもんでしょう」には驚きがない。
>「まさか」には新鮮な感動と喜びがある。
 
キリスト信仰?をたたえる驚くべき神の奇跡の「まさか」の機関銃です。シャローム氏のボロクソ節と表裏一体の、ボロほめ節とでも言うべきでしょう。シベリア抑留者が体験で培った忍耐強さを、一挙に貶めています。信仰から、他者の悲しみに共感する情緒や情感が失せてゆく教条主義や夢物語信仰になると、こういうことが起こってくるのです。
 
転載元にとっては、それは「まさか」だとしても、人にそれを納得させる人間の側の説得力がない、と言わざるを得ません。つまり、「まさか」なんです、すごいでしょ、・・と言っているだけだから、奇跡のような驚くべきことを列挙して、あり得ないことが起こっている有り難さだけを強調して、信じるだけで救われる、という宣伝をしているにすぎません。あり得ないことが起こったと驚いても、そのあとの人間としての成長に結び付かない話なのです。奇跡でのみ信仰を語ると、こういう説教になるという例です。
 
人間として、キリスト信仰が真実であるという、人間側の、実感の表現と経験の根拠がないのです。奇跡の、そして信仰の叩き売りのようなものです。シャローム氏と共通するところの、神の領域のみに固執して、人間を疎かにしている態度なのです。
 
キリスト信仰者に、「まさか」という体験の感慨を持つ人は、いるだろうとは思います。しかしながら、そこに展開されたのは、人間離れした「まさか」ではなく、救いの筋書きが「まさか」でもなく、人間としての感動体験であるはずです。
 
人間である自分の内側で起こってくるところの、人間である自らを揺さぶったところの、みずみずしい感慨を語らずに、驚きばかりを表面的に強調しているのは、超常ばかりを求めて驚きたいという人間離れの趣味の傾向なのです。残念ながら、宗教者にはありがちなことなのです。
 
大事なことは、超常は人間の思うようになるものではない神の業(わざ)であるということ、そして、超常のみを大事にする者は、日常を疎かにするということです。その結果として、軽薄な筆致と、体験者を貶めると言われても仕方のない文脈になってしまうのです。つまり、そういう不適切さに気づかなくなるということです。
 
>原始キリスト教会には、ローマ帝国で奴隷にされた人々が、
>多くクリスチャンになった。
>なぜか。奴隷からクリスチャンへの転換は、
>「こんなもんでしょう」から「まさか」への飛躍だ。
>現状は変換クリックできないと諦めていたのに、
 
転載元は、以前から、場違いな比喩か冗談のような、ふざけた書き方が目立ってきました。この軽さで伝道しようとすれば、軽くない信仰の本質から遠ざかるのは当然なのです。しんみりと考えてみよう、という気になれない文体と内容になってしまいます。
 
>現在のあるがままの姿で、それを突破できる道があった。
>それがキリストの福音だ。
>「まさか」と奴隷たちは喜び、教会に馳せ集まった。
>社会の一番低いところに強制連行されていた人々が、
>社会の一番低いところを歩かれたイエスに救い上げられたのだ。
>「まさか」と狂喜しながら。
 
上っ面な調子の良さだけが目立ちます。シャローム氏の、どんでん返しで救われる、に近い大仰さを感じます。だから、上っ面だけ、調子良い気分を生じますが、それはキリスト信仰ではないということです。空約束は、空回りするのです。
 
>「不信心な者を義(無罪)とされる方を信じる人は、
>(修行努力の)働きがなくても、
>その信仰で義(無罪)と認められます。」
>(新約・ローマ人への手紙4章5節)
 
修行や戒律のような縛りのないキリスト信仰ですが、まさか、まさか、と驚きの声を出しているだけで義を得られる信仰ではありません。軽すぎる書き方と内容の乏しさから見ると、転載元も、シャロームと同じように、無条件に自動的に無罪になる信仰なのでしょうか。一切の苦しみを否定してよいと曲解したシャローム氏は、どんな卑劣なことをしでかしても悔い改めないで赦されるから罪を気にしない、かつ、善悪の判断まで放棄すると言っていました。
 
軽い筆致でどんどん良くなるからという行進曲のような書き方です。キリスト信仰は、もっと人間の悲しみの奥深い心にまで触れてくる信仰ですし、それは聖書において、キリストと人間のかかわりにおいて示されているところです。またそれだけの深さを持っていなければ人間の一生を支えることはできないのです。ネタやノリでどうにかなるものではありません。
 
ましてや、シャローム氏のように批判され否定されていることを完全無視して手ごたえもなく同じことを繰り返すことで、何か良くなるものではないのです。教条主義的な信仰者が、奇跡たっぷりの救いの筋書きを歪んだ笑顔を作って押し出してくるときは、訂正不能の異臭に満ちています。
 
 
(2017年10月31日)
 
貶める(おとしめる)
蔑み(さげすみ)
 
 
 
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