取税人ザアカイ
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom シャローム、シャロム 
 
 (批判対象記事)
 失われたものを尋ね出して救うため
 2017/7/2(日) 午前 11:18
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28153689.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 急いで降りて来なさい
 2013/1/25(金) 午前 8:43
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23973381.html
 ザアカイ! 急いで降りて来なさい!
 2011/2/27(日) 午前 7:17
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/19151412.html
 急いで降りて来なさい
 2010/8/29(日) 午前 6:26
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/16603087.html
 失われた人を見出すために来られたイエス
 2009/4/24(金) 午前 10:07
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/602556.html
 
 
シャローム氏が、いかにタイトルを少しだけ変えてコピペしているかが分かると思います。新しい記事が書けないので、前に書いた記事に少し手を加えて載せます、とか、私なら書きますが、それが言えない人なのでしょうか。それにしても、長い・・。
 
>今日の聖書の言葉です。

>「ザアカイ。急いで降りて来なさい。
>きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
>(新約・ルカによる福音書19章5節)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
19:1
さて、イエスはエリコにはいって、その町をお通りになった。
19:2
ところが、そこにザアカイという名の人がいた。この人は取税人のかしらで、金持であった。 19:3
彼は、イエスがどんな人か見たいと思っていたが、背が低かったので、群衆にさえぎられて見ることができなかった。
19:4
それでイエスを見るために、前の方に走って行って、いちじく桑の木に登った。そこを通られるところだったからである。
19:5
イエスは、その場所にこられたとき、上を見あげて言われた、「ザアカイよ、急いで下りてきなさい。きょう、あなたの家に泊まることにしているから」。
19:6
そこでザアカイは急いでおりてきて、よろこんでイエスを迎え入れた。
19:7
人々はみな、これを見てつぶやき、「彼は罪人の家にはいって客となった」と言った。
19:8
ザアカイは立って主に言った、「主よ、わたしは誓って自分の財産の半分を貧民に施します。また、もしだれかから不正な取立てをしていましたら、それを四倍にして返します」。
19:9
イエスは彼に言われた、「きょう、救がこの家にきた。この人もアブラハムの子なのだから。
19:10
人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」。
 (ルカ19:1-10、新約聖書)
 
ザアカイという名の取税人のかしらで金持ちの人が主イエスと出会う記事です。聖句は10節分の長さで、詳しいことは書いてありませんが、聖句から読み取るべきことはあります。
 
>ザアカイは両親に“ザアカイ”…“聖”と名づけられ、大切に育てられました。
>毎日、両親に“きよし”“きよし”と呼ばれながら成長しました。
>両親は「誰でも清くならなければ神を見ることは出来ない」というみ言葉を
>心から信じて生きていたのです。
 
シャローム氏は、原語を知っているのでしょうか。また、聖書には、ザアカイという名は、ここに4回出てくるだけのようですが、ザアカイの幼年期を知っているのでしょうか。恐らく、これは、原語を学んだ誰かに教えられたことをそのまま書いているのだと思います。それで、コピペが多いのです。
 
私は知っていないことを責めるつもりはありません。私も知らないからです。しかし、誰かに教えられたこと、事実が書かれているわけではなくて推測の解釈であること、など、書いておかないと、例えば「この言葉は原語では何というのですか、どういう意味ですか」という質問をされたときに困るでしょう。そのときシャローム氏は、いつものように、はぐらかすか、嫌味でも言って、質問者を去らせるのでしょうか。
 
ザアカイの家が貧しかったこと、ザアカイが取税人になったこと、そして、どこまで聞いていたかは書いてありませんが、まるで全部知っているかのようにシャローム氏は、イエスについての、良い噂や悪い噂や危ない噂をザアカイが聞いていたこと、などを、見てきたように、物語に仕立てたように、長々と書いています。
 
推測でいろいろ書くのは、いいのですが、推測であることを書かなければなりません。書かないのは、洗脳を武器とするカルトの生業です。ここでは、引用を、かなり省略します。
 
キリストが、ザアカイの家に泊まると言うと、急いで下りてきて、喜んでイエスを迎え入れるザアカイ、人々に罪人の家と言われながら、ザアカイは、さらに、不正を改めることをキリストに言います。このことから、何が言えるでしょうか。
 
ザアカイは、貧しさのために罪人となり、そのためにイスラエルの人々に嫌われましたが、それゆえにこそ、救いを求める気持ちが人一倍強かったということでしょう。
 
>神の民だと!?神の家族だと!糞くらえだ!
>この世はお金だ、権力だ!
>神への、そして神の民に対する不信と怒りで心はいっぱいでした。
 
ザアカイは、悪役のように、人々に嫌われることをしていたが、本心では、「お金だ、権力だ!」とは思っていなかったということでしょう。どこかに、このままではいけない、という不全の気持ちがあったのだろうと思います。
 
イエスのうわさを聞いた時には、興味本位もあったかもしれません。しかし、それだけなら、神の民に対する不信と怒りでいっぱいなら、会いに行ったでしょうか。せいぜい横目で眺めておれば十分でしょう。見るためにわざわざ木に登ったりしたでしょうか。
 
奇跡を起こすというイエスは、軽蔑の代わりに、ザアカイの家に泊まると言いました。ゆえに、ザアカイの不全からの欲求が、二度とないかもしれない機会を逃さず、思い切り、不正をやめるという発言をさせたのだろうと思います。それを受けて、キリストは、「救がこの家にきた。この人もアブラハムの子」「失われたものを尋ね出して救うため」と言っています。
 
これは、キリストとザアカイの、つまり、人となった神と、人の、双方向の対話なのです。キリストは、溢れる人間性をもって、ザアカイに呼びかけ、ザアカイは、持っていた情熱的な救いの欲求から答えているということです。決して、イエスに会った途端、目覚めて、怒りから変わって、突然、救いを欲しがり出したという魔界の奇跡話ではないということです。
 
このように、聖書は、書き方が簡略であるために見逃しやすいかもしれませんが、特に、新約聖書は、キリストと、不全のために愚かであっても、人間との、理解と共感が可能な温かい交わりを書いています。
 
人間性に共感できる神と、人間性しか持たない人との、温かい共感を、真っ向から否定して、すべてを人知を超えた驚くべき奇跡として語ってきたのが、シャローム氏です。
 
>神を汚す者と言われ、命を狙われているイエス!
>いったいイエスとはどんな人物だろう?
>ザアカイはいつかチャンスがあれば、
>イエスを自分のこの目でひと目見たいものだと思って、
>その時を心待ちにしていたのかもしれません。
 ・・・
>イエスさまはザアカイにそんなことをするように言われたわけではありません。
>しかし、ザアカイは自分の心を支配していたお金を手放したのです。
>ザアカイは自分の収税人仲間以外に訪ねて来ることのない
>自分の家に来てくださったイエスさまへの喜びのあまり、
>しなければ・・・でもなく、
>すべきである・・・でもなく、自ら進んで、イエスに申し出たのです。
 
だから、この部分が、前のほうに書いてある「神の民だと!?神の家族だと!糞くらえだ!」「この世はお金だ、権力だ!」「神への、そして神の民に対する不信と怒りで心はいっぱいでした。」では説明できないということです。怒りの奥に、ザアカイの求道の欲求を温めてきた情感と情熱を書かなければ、解説にはならないでしょう。ここに気づかないということが、すべて奇跡で片が付く、という超常信仰の安易さなのです。
 
>どんなに多くのお金を持ち、ローマの権力のもとに生きていても
>ザアカイの心は満たすことの出来なかったのです。
>イエスさまは私たちの心を支配し、縛っているものから解放してくださいます。
 
シャローム氏は、イエスが、心を支配して変えたという単純な救いの筋書きを書くだけで、人間性の共感の必然を書きません。ザアカイの罪と恨みは書いても、ザアカイの言動と態度から、ザアカイが本当に求めているものに思い至らないのです。
 
>私たちの傷ついた自尊心をイエスさまはいやしてくださいます。
>傷ついた自尊心のため自分のありのままを受け容れることができず、
>自分を喜べない自分・・・。
 
そして、何でもかんでも神だからという書き方で、傷ついた自尊心をいやしてくれるから、喜べない自分でも喜ぶようになる、という書き方をします。しかも、人を傷つけたことではなく、自分の自尊心が傷ついたことだけを気にしています。
 
それは、そのまま、シャローム氏の、どうにも弁明できない自分でも喜べるのだ、癒されるから、という言い張りであり、反省も悔い改めもせずに、信仰という万能薬を塗れば治って楽にしてくれると、彼をひいきする神?にしがみついている姿なのです。
 
>そのため神の愛をも信じられず、人に対する不信と疑いをもって生きている自分。
>何とか自分を強く見せるために、お金や権力を追い求めている自分。
>安心の拠り所をさ迷い歩きながら求めている自分・・・。
 
いったい誰のことを自分と言っているのでしょう。ザアカイは、不正をやめる発言をしました。シャロームは、何の反省の言葉もなく、悔い改めだけはしないつもりで、これまでのように、この記事のように、これからも自己正当化に神もキリストも利用するつもりなのでしょうか。
 
>イエスさまはザアカイの名前を呼び、
>ザアカイの家に泊まることにしていると言われた。
>ザアカイはイエスを喜んで迎え入れた。罪人そのものである自分の家に。
>ザアカイの心に生ける神の命の息吹が注ぎ込まれたのです。
>両親の祈りはむなしい祈りではなかったのです。
 
神の命の息吹が注ぎ込まれた、という信仰の美辞麗句のリップサービス、そして、それは人間にとって何の具体性も共感も呼び起こさない類の奇跡の言葉だけを、シャローム氏は、気安く繰り返し書いて結んでくるのです。人間が分からず、自分が分からず、それでも「見える」という見栄のために書いているシャローム氏なのです。
 
ザアカイは罪人で、ひょっとしたら偽善者でもあったかもしれない、しかし、ザアカイは悔い改めるだけの心は持っていたということです。シャローム氏と違って。
 
>そして更にイエスは言われました。
>「人の子がきたのは、失われたものを尋ね出して救うためである」
> (ルカによる福音書19章10節)
 
詭弁を弄して逃げまくる者を尋ねだして救うでしょうか、否です。彼は、今回も、神の前に言い逃れをして悔いることがなく、偽善の罪を重ねました。
 
>神の平安がありますように!
 
彼は、偽善と隠蔽、丁寧語と聖書語を、生業としているので、実に姑息に、言葉面を操って、主語を代えたりもしながら、自分は正当で救われる、ということを文章の中に暗示してきます。彼の記事を読むとき、ひょっとして彼がアクセスしてきたときは、気を付けてください。結果として、暗示されるのは、そのような企みで神と人をだまそうとする者が救われた記事は、聖書のどこにもない、ということだけなのです。
 
 
(2017年11月05日)
 
生業(なりわい)
操る(あやつる)
 
 
 
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