キリストとモーセ
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom シャローム、シャロム 
 
 (批判対象記事)
 人の助けと神の救い
 2017/7/19(水) 午後 3:46
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28177116.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 モーゼとイエス
 2012/7/7(土) 午後 3:20
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/23066837.html
 巨像は虚像
 2011/8/3(水) 午前 9:13
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/20721943.html
 
 
どうも、シャローム氏は、救い主キリストと預言者モーセを並列視しているようです。前には、ヨブとキリストを並列視しているようでした。彼にとって、聖書は、シャローム氏個人のストーリーを飾る登場人物に過ぎないのでしょうか。好きなように勝手に扱っています。
 
>今日の聖書のみ言葉です。

>空の鳥を見るがよい。まくことも、
>刈ることもせず、倉に取りいれることもしない。
>それだのに、あなたがたの天の父は彼らを養っていて下さる。
>あなたがたは彼らよりも、はるかにすぐれた者ではないか。
>あなたがたのうち、だれが思いわずらったからとて、
>自分の寿命をわずかでも延ばすことができようか。
>また、なぜ、着物のことで思いわずらうのか。
>野の花がどうして育っているか、考えて見るがよい。
>働きもせず、紡ぎもしない。
>(新約・マタイによる福音書6章26~28節)
 
思い煩わなくていいというキリストの言葉ですが、そのままだと怠慢の勧めであるかのように誤解されそうな聖句を、シャローム氏は、解説していません。この後、シャローム氏が何を書いているかと言えば、モーセの出エジプトの話なのです。
 
長々と書いていますが、途中省略します。
 
>40年に及ぶ荒野の生活の中で、モーゼはエジプトの王家で手に入れた
>すべてのものを失い、無力なひとりの羊飼いとなってしまうのです。
>その姿は丸裸にされた無力なひとりの人としての存在の姿でもあります。
>しかし、そのモーゼを生ける神はイスラエル民族の解放者として用いられるのです。
>何ができる、何をしたということではなく、神の前にむなしくされたモーセを、
>無力なひとりの人として神は神の計画、神のわざのために召しだされるのです。
>このモーゼに来るべきイエスの姿を見ることができます。
>モーゼという名は引き出すものという意味ですが、
>イエスもまた救うものという意味です。
 
モーセとイエスという名の語源の類似を言っているようだが、それで、キリストの言葉から、モーセの話へと、ワープしてしまったようです。モーセは、神の力によって、イスラエルの民をエジプトから解放した預言者と言えるでしょう。しかし、キリストのように、人間の罪を背負って十字架につく、という犠牲としての使命を帯びているわけではありません。それで、イエスはキリスト(救い主)と呼ばれ、モーセはそう呼ばれない、ということなのです。キリスト者なら誰でも知っているはずのことなのです。
 
モーセの奇跡が映画になるほど壮大な話として語られるものだから、シャローム氏は、好んで書いているのかもしれないが、伝統的解釈を踏みにじるつもりなのでしょうか。
 
モーセは預言者として尊敬の対象にはなるでしょうが、少なくともキリスト信仰においては、信仰の対象にはならないのです。自分を高めるために、聖書さえも利用するシャローム氏の影響を誰も受けてはいけません。彼のいい加減さは、まさに、彼の書いたものとして、いたるところに表れています。イエスを、主イエスと呼びキリストと呼びますが、モーセを、主モーセとは呼びませんしキリストとも呼びません。
 
>このモーゼに来るべきイエスの姿を見ることができます。
 
全然違うと思います。人間としての共感性を共有できず、心というものに全く興味を持たないシャローム氏は、キリストの愛に共感できず、大きな奇跡を欲してモーセにキリストを見るのでしょうが、自分の豪語ぶりを重ねたいのかもしれません。思い上がりの末の幻想によって区別がつかなくなっているのでしょう。彼の言うことは、全然違うと思います。
 
ここに至って、彼が、キリストの言葉から、解説抜きで、モーセのことを話し始めた理由が推測されます。驚くべき奇跡によって救われるのだから、何も気にする必要はないし、何もしなくていい、という意味に最初のキリストの言葉を曲解させたいのでしょう。これで、神を讃美したつもりなのでしょう。
 
そして、それは、そのまま、今のシャローム氏の不正不実の偽善の現実を、気にしない、悔い改めない、何をしなくていい、ということの正当性を言いたいのだろうと思います。常識的判断もキリスト者としての判断も、できないという証拠でしょう。だから、平気で神の奇跡を正当化に利用しているのです。
 
私は、神の奇跡が、めったに起こらないから奇跡と呼ばれることの幸いを思います。奇跡が、保身のために詭弁を弄する者に起こることなど、聖書のどこにも書かれてはいません。シャローム氏は、露骨な背教者の本性を剥きだしにしています。
 
>ラムセス2世はヤコブ一族の子孫であるイスラエルの民を恐れて奴隷とするのです。
>ラムセス2世の驕りとイスラエルの民の苦しみが頂点に達した時
>人の時に終わりが告げられ神の時がきたのです。
>そしてモーゼはラムセス2世の権威と力によってではなく、
>人知を超えた生ける神の力と方法によって
>ラムセス2世の支配からイスラエルの民を解放したのです。
 
モーセも主イエスも神の奇跡を表しましたが、主イエスは、キリストとして、罪人の罪を赦し救うことが目的でした。十字架は、その最終的な使命であり成就だったのです。
 
シャローム氏にとって、聖書も神もキリストもモーセも信仰も、好きなように解釈していい単なる一つの思想に過ぎないのでしょう。
 
キリストとモーセを、同一または類似として並べて語ることは断じてできないと思います。ここに、両者を並列視して、キリストの言葉の後に、解説なしで、モーセを書いているシャローム氏の意図が明らかになっているわけです。キリスト信仰の初歩的なことも基本も節操も、シャローム氏は、分かっていないし、気にもしていないのです。分かっていたら、このような書き方はしないはずなだからです。
 
>そのラムセス2世の虚像、いや巨像は砕かれ、砂に埋もれ、乾いた土の上に横たわり、
>ラムセス2世によって建造された多くの神殿や建造物には
>その業績がびっしりと書き記されていますが、
>それらは何をしたか、加えてどれほどの成果をあげたかを評価の基準にして、
>歴史や文化を形成したことの虚しさを白日の下にさらし、
>その亡骸はミイラとなってエジプト考古学博物館に横たわっています。
 
これが、前にも書きましたが、栄えた者が滅びたことを、栄えないシャローム氏が、ボロクソに言って勝ち誇る、という、神を讃美したつもりの、シャロームの悪意と敵意に満ちたボロクソ節です。この野獣のような凶暴性は彼に逆らう者にも向けられます。
 
まあ、ひどい自己満足で、人間としての反省をなくした者の、ルサンチマン(弱者に募る怨念)の弱者の道徳、のみならず、その怨念から神の復讐を喜んでいる様子です。彼らは、あんなに空しい、自分は神のしもべだから、違う、と上気して豪語しているのです。こうはなりたくない。
 
人間は不全なので、時々に、信仰は成長することが必要です。しかし、個人が好き勝手に信仰対象をいじったり代えたりしてよいような軽い思想ではありません。シャローム氏は、まるで趣味のように信仰を考えているのでしょう。彼は、その軽さで扱って、処世術として利用して、自らのどうしようもない自己矛盾と嘘っぱちと空っぽの結果を収めることになるのです。
 
私たちキリスト者の信仰対象は、イエスという御名のキリストです。神そしてキリストは、私たち人間より上であり、私たちの支配者であり、主と呼ばれます。モーセは預言者ですが信仰対象としての主とは呼ばれません。また、シャローム氏のように、これら聖者を、自分のほしいままに好きなように扱うことは、神に直接背く大罪であります。
 
>神の平安がありますように!
 
シャローム氏と平安を共有すると、見せかけの安楽のうちに、キリスト信仰からどんどん離れてゆくことになります。そういう人が、実際いるようです。ここまで恣意的に聖書を扱うようになった偽善者に誰も近づいてはいけません。彼が、悪意を持って人を惑わす偽牧師そして偽キリスト者である証拠が、まさに彼の言説によって、そろってしまったようです。
 
 
(2017年11月07日)
 
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