風を追う者たち
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom シャローム、シャロム 
 (批判対象記事)
 伝道者の書4章4~6ー神の養いに目を向ける!
 2017/11/7(火) 午前 10:22
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28327051.html
 
 (転載元)
 生活の中の聖書
 伝道者の書4章4~6ー神の養いに目を向ける!
 2009/11/3(火) 午後 0:31
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jc_brother/22029033.html
 
 
弁明するための何ものも持ちえない者の常套手段として、自分で書けないときは、お仲間に頼ると決めているようです。こういうやり方で、シャローム氏は人を利用し、巻き添えにする、ということを知ってほしいです。偽善者に利用されていることを転載元は知っているのでしょうか。シャローム氏同様、転載元もコメント欄を閉鎖していますが、転載可になっています。責任を取らないのは、神の御心だとでも言うのでしょうか。無責任同好会からの発信です。
 

今日は「文化の日」である。天気も回復し、日差しがある穏やかな朝である。私たちの生き方を考えるにはいい一日である。

 
シャローム氏同様、教える立場の、悟り顔と胡散臭さが既に見えているような書き出しです。不全の共感など、望めそうにありません。
 
聖句引用は、伝道の書4:4-6です。前にも見たような気がします。

4 私はまた、あらゆる労苦とあらゆる仕事の成功を見た。それは人間同士のねたみにすぎない。これもまた、むなしく、風を追うようなものだ。
5 愚かな者は、手をこまねいて、自分の肉を食べる。
6 片手に安楽を満たすことは、両手に労苦を満たして風を追うのにまさる。

 

ここにとてもおもしろいことばが書かれている。仕事の成功は人間同士のねたみとあることばだ。何事にもすべて行うことの出来る立場にいる、人間にとってのあこがれのような人物が言うのである。

 
著者がソロモン王だという立場のようです。著者は複数だという主張もあるようですが。
 
まず、王だからと言って、人間のあこがれとは限りません。何でもできる王だからといって、実際に何でもできるとは限りません。先入観で限定したうえで、面白い、と言っています。栄える者が、ねたまれることが面白いのでしょうか。
 
責任の重い立場ならば、ねたまれることもあるだろうと、普通、考えるでしょうに。また、王がいつも安泰とは限らないことは、歴史の必然であり、また、聖書にも書いてあることですから。
 

私たちは仕事の成功は、その人の努力の結果として起こることだと思っているし、教えられているけれども、しかし、その裏にあるものはこの人物が言うように、罪ある人間の性質だと言うのだ。

 
成功への努力が、裏を見れば罪ある人間の性質だから戒めるという方向の筆致になってきました。やはり、原罪として不可避や必然や人間の本質を考えようというのではないようです。罪のない善という様態を、既知のように、知っているという先入観があるようですが、そんなに簡単ではないと私は思っています。人は、自分の為したことの因果と成り行きを、時間的空間的に、詳らかには知りえないからです。
 

経済活動は国の繁栄のため、利用者の利益のためという側面があり、また世の中が便利にあり、生活が楽になり、楽しむことになる。教育であっても、知識を持ち、人間的に豊になり、生活を豊にするために必要なものだ。このことは良きエネルギーとして働けば、生活の向上に向く、社会の発展に繋がるものである。

 
すごく上からの権威のように、認めているから、後が怖い筆致です。良きエネルギーとして働けば、という不気味な条件を付けています。それで結局、また、当たり前のことを豪語して終わるのでしょうか。
 

企業同士はある製品が出て売れるとたちまち同じようなものが出てくる。こちらの方が優れていると。あの金融商品よりもこちらの方が有利だと。家庭では子どものことで競い合い、会社では出世争い、どれだけ高価なもので家の中が埋まっているかを競い合う。まさに競争社会、比較社会なのである。隣の芝生はきれいに見えるのだ。その思いが私たちの生活を占めている。しかし、聖書はこう戒めるのだ。

 
自由競争をしてはいけないのだそうです。程度とか基準とかの余地さえ書かないまま。
 

1ヨハネ2:16
肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 
欲なのだから、この世から出たものというのは、聖句を引用するまでもなく、誰もが知っているわけです。それで、競争はいけない、という根拠になるでしょうか。同じ箇所には、
 
 (ヨハネの第一の手紙、口語訳)
2:15
世と世にあるものとを、愛してはいけない。もし、世を愛する者があれば、父の愛は彼のうちにない。
 ・・・
2:17
世と世の欲とは過ぎ去る。しかし、神の御旨を行う者は、永遠にながらえる。
 (1ヨハネ2:15,17、新約聖書)
 
迫害が迫ってくる時代には、終末についての考えが、あったと思われます。新約の時代には、世がキリスト者を迫害するから、世を敵視する傾向もあったようです。実際、殉教という終末が迫っていたのですから。
 
世にあるものを愛してはいけないと書いてありますが、17節においては、世に仕えず、神に仕える、というキリスト者の節操と、ほぼ同じだと思います。
 
転載元は、これで分かったつもりなのでしょうか。それで、世にあるものを悪と決めつければよいと考えるのでしょうか。それは悪いのだ、というだけなら、考察が、まるでない、ということになります。
 
欲も生きてゆく上で必要なことがあります。過ぎ去るのだから、いつまでもは、こだわってはいけない、ということでしょう。キリスト者は、神以上に、生涯にわたって仕えるものがあってはならない、というキリスト者の節操を語っているのだろうと思います。
 

アダムはエデンの園で働いた。そして思いのままに食べていた。仕事も労苦ではなかった。食べ、働き、働き、食べていた。それでよかったの。すべては神が備えてくれたものを受け取っていくだけだったのだ。しかし見るからにおいしそうな善悪の知識の木から実を取って食べたために、神から追放されたのである。

 
シャローム氏と同じですね・・。アダムとエバを悪者にして、楽園追放の因果を書いています。人類の祖を否定することは、祖とは認めていないことになります。いったい、何を祖として、今いる、つもりなのでしょう。恐ろしいことですが、無責任同好会は、シャロームも、転載元も、喜んで、神が祖だ、と言うかもしれません。神を先祖に持って、弁明できないときに、シャロームと同じように、聞かないが、言うだけは言う、という絶対正当化の教条が、神に対する罪だとは思わないのでしょうか。
 

しかし、そうだからといって労苦もせず働きのない者は、手をこまねいて、結果として自分の身代を食いつぶす愚か者と呼ばれてしまう。

 
さすがに、風を追うような虚しいものだから労苦などするな、とは言えないようです。
 

ある若者が順調にバイトをしていたのだが、知り合いの何人かが正社員になり、その話しを聞いて、バイトを辞めてしまった。しかし、いまの雇用状況もあって、望む場が見つからず、いまはまたバイトで食い繋いでいる。この人物のことばを使えば、これもまた、むなしい。

 
労苦をしたことを言っているのか、しなかったことを言っているのか、いずれにしても、転載元は、伝道の書の真似をして、空しいと言っています。聞く価値がありますか、この、どっちつかずの話。
 

両手一杯の愛は必要だが、私たちは貪欲にすべてのものを手に入れたいという思いがあるので、すべてを刈り取ろうとする。しかし両手一杯にもので満たそうと労苦することは、むなしいことであるから避けるのだ。

 
また、転載元は、人はすべてを刈り取ろうとすると決めつけて、避けるといっています。なのだ、なのだと、決めつけないでは、何も言えない様子です。これだけは言いたいということがなく、何か結論的なことを言わなければと思うときにこうなるのだろうと思います。
 

レビ記19:9~10
あなたがたの土地の収穫を刈り入れるときは、畑の隅々まで刈ってはならない。あなたの収穫の落ち穂を集めてはならない。またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない。わたしはあなたがたの神、主である。


 
最後は、落穂ひろいの聖句を挙げるだけの安い憐れみに、落ちているのです。書かないほうがよかったのではないか。聖書について書くことになっている退屈な義務感だけから書いたというだけで、どうしてもこれだけは言っておきたいという動機が見当たらない記事です。書かなければ、シャローム氏に利用されて、偽善の片棒を担ぐこともなかったでしょうから。
 

私たちキリスト者はこの余裕を持ちつつ、この地上の生活がどれほど神に養われいるかに思いを向け、キリストにあることの喜びをもって、楽しみたいと願うのだ。

 
落穂ひろいを認めることが、余裕の楽しみだと言っています。それでいいんですか。それだけだと、偽善だと思いますが。それで、神に養われている話になると本気で思っているのですか。こういう書き方をするから、丁寧な言葉だけで、讃美だけで、小手先の細工と陰謀と隠蔽をして、シャロームのような者が、牧師?とか福音伝道者?とか嘘をついて、ちやほやされて、いい気になるのでしょう。
 
なんだか、落穂ひろいをする婦人を遠くから眺めながら、自己満足の徳に酔っている偽善者のイメージしか湧いてきません。こういう者が、いくら大勢集まっても、社会は永遠に変わらないでしょうね。弱者の自己満悦の道徳?にどっぷり浸かっている感じです。
 
いい加減な文章だと思います。絶望を、思い切り、描いて見せている転載元と、転載したシャロームのイメージがぴったりです。敬虔の学習と経験がないだけでなく、自由な発想も飛躍もなく、良心と思慮と共感性もないのですね、ということで、もちろん、不全や低さや弱さなど信仰として必要なものについて、共有できる何ものもありません。
 
悪と偽善の代官シャローム氏は、以前、神の啓示だから議論の対象にならないと言っていました。確かに、別の意味で、議論の対象にさえならないような幼稚な文章を、シャローム氏は書いてきました。そして、同じように、そのときの、思い付きで書かれたような文章を、転載可となっているものだから、間を持たせるために転載してくるのです。シャローム氏は、楽しいのでしょうね、快感なのでしょうか・・他者を利用し踊らせるということが。
 
藁のように細くて脆い思路と、その脆さを全く自覚できない乾燥した傲慢と、形式通りに再生しかできない教条と、そのくせ、啓示だからと、聖霊の導きだからと、他者の意見を無視して平気でいられる石のように固まった首から上で全か無の1ビットを決めつける訂正不能集団の頷き合いとなっている無責任無反省同好会は、今後も長く、福音と名付けた迷惑を、ネットにばらまいてゆくのでしょうか。くれぐれも関わって思慮と共感を奪われることのないようにしてください。
 
今は、シャロームの関係者で、ネット活動を停止している者たちがいます。恐らく、神?の隠れ場なるところを想定して、そこで神?が批判者を滅ぼすのを待っているようです。私が死んで後、シャロームも、転載元も、コメント欄を再開して、また、ゴソゴソと自分信仰の宣伝活動を始めるのでしょう。その時、迷惑だというメッセージを発信できる人が、どれほどいるか、心配ですが、私が機能不全になる日を含めて、私の終末までは、絞り出してゆきます。
 
厳しく、かつ、優しく、すべてを見ておられる御方の存在を、彼らは知りません。彼らは、固定されるべきものとして根を張り、揺るがないと誇るけれど、実際は、届いたところの養分を吸い取って、周りを枯らしているのだということを知りません。自分も周りも見ないからです。
 
私は、人間としても無力ですが、少なくとも、時々に、それをありのまま正直に隠すことなく捧げる相手となる御方がいることを知っています。
 
神を恐れ、キリストを慕う人々は、まず、信仰の始めに、自分の頼りなさ、低さ、弱さ、小ささ、総じて、不全を実感した人々です。だから、人間である自分を見つめて考えることを怠らないでしょうから、訂正不能の暴虐卑怯の者たちが、度重なる警告にもかかわらず、不全を完全と言い換えて蔓延ることが終わる時からは、きっと再生し、人間にとって必要な信仰の道を歩んでくれるだろうと待ち望んでいます。
 
 
(2017年11月08日、同日一部修正)
 
蔓延る(はびこる)
浸かる(つかる)
藁(わら)
脆い(もろい)
頷く(うなずく)
詳らか(つまびらか)
 
 

 
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