腐った偽善
 
 
 (批判対象ブログ)
 その名は不思議
 管理人:shalom シャローム、シャロム 
 (批判対象記事)
 自分は何者かを写す心の鏡
 2017/11/8(水) 午前 10:0
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/28328476.html
 
 (シャローム氏の類似過去記事)
 心の化粧
 2016/11/17(木) 午前 8:35
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27803293.html
 鏡よ 鏡よ 鏡さん
 2015/5/10(日) 午後 8:54
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26617503.html
 格好の悪いイエスと格好の悪い証言の真実
 2012/5/11(金) 午後 0:50
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/22746067.html
 自分を神とする
 2009/5/6(水) 午前 8:41
 
https://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/919948.html
 
 
既に、私が、前に批判記事を書いている文章です。シャローム氏は、このように、前と同じ文章を載せて、批判者の疲労と死を待つつもりなのでしょうか。
 
>+++++++++
>★今日のみ言葉★
>+++++++++
> 「自分は何者か」

>自分勝手になり、自分中心になるのは、ある意味、自分を神とすることですね。
>そのために人を責めたりしますが、また逆に自分を責め、不平不満の気持ち、
>フラストレーションなどが起こってきます。
 
シャローム氏にとって、ちょうどよい引用記事があったものです。これがシャローム氏のやり方です。何度も、彼がやってきたことです。批判者を、人を責める悪者だと決めつけて、その原因を、批判者の不平不満やフラストレーションと決めつけてきます。シャローム氏に逆らい、批判すると、こうなるのです。悪質な詭弁と侮辱になります。だから、私は、シャローム氏には書く資格がないと言ってきたした。彼のこういう卑怯な処し方を見るたびに、私は、少なくとも私が生きている限りは、批判を続けようと、思いを新たにします。
 
批判者に弁明や反論ができないで、侮辱して、嫌がらせのような悪口を書いて、それでも批判されるものだから、コメントを削除して、不感不応無反省のまま、無視し続けるシャロームのような人もいます。そして、批判されたことを、何度も同じように書き続ける厚顔ぶりです。
 
> 詩篇95:6、7
>わたしたちを造られた方、主の御前にひざまずこう。
>共にひれ伏し、伏し拝もう。
>主はわたしたちの神、わたしたちは主の民、主に養われる群れ、御手の内にある羊。
>今日こそ、主の声に聞き従わなければならない。
 
>自分を造られた方を知り、その方の前にひざまずき、礼拝することで、
>自己中心の勝手な思いから解放されていきます。
>さらに、礼拝を通して得られる恵みは、
>自分という人間が主の前に何者であるかが分かってきます。
 
自分という人間が主の前に何者であるかが分からないのは、シャローム氏自身なのです。自己中心のシャローム氏は、真の礼拝もしたことはないと思います。ずっと神に対して嘘をついてきたのですから。根っから腐っているのでしょうか、おびただしい偽善の証拠を残して、なおも、こういう白々しい嘘を並べているのは。
 
>主の御手のうちにある主の民のひとり、主の牧場の羊のひとり、
>神の子とされ、義とされ、神に愛されている者として、
>週の半ばの今日も、短い時間でも主を礼拝し、主のみ声を聞きませんか。
 
主の御声とシャローム氏が読んでいるのは、彼の教条からの幻想の陶酔気分です。彼は、今、病的気分と、異常行動と、まとまらない思考の、総合商社です。だから、宣伝だけは、やめません。だから、人間を見ずに、善悪の判断を放棄したと狂った教条を言っておきながら、自分の価値観で善悪を決め付けています。
 
> 《shalomのコメント》

>男はパッと出かけようとしますが、よく待ったがかかります。
>女性は出かける前に、あれこれ片付たり、鏡に向かい、念入りに化粧をはじめます。
>化粧品もピンからキリまでありますが、向かう鏡も大事でしょう。

>鏡が曇っていたり、ひびが入っていては顔がよく見えず、
>顔にまでひびが入ってしまいます。
>鏡の表面に凹凸があり、歪んでいると顔まで歪んで見えて
>化粧ができないかもしれません。
>鏡は何よりも顔をあるがままに映すものでなくてはなりません。
 
シャローム氏の話は、信仰を乱暴に鏡に喩えるところから始まるようです。彼の信仰は、過去記事のタイトルにあるところの、まさに、化粧に過ぎません。
 
>もし、私たちが自分の心の化粧をするとしたら、どうでしょうか。
>どんなに歪みのない澄んだ鏡であっても、人の心を映し出すことはできません。
>ブランド物の服を着たり、バッグを持つといいと思われますか。
 
やたら粗雑な例え話をしています。シャローム氏は、ブランド物を云々するよりも、自らのわざとらしい心の化粧を落とすべきなのです。心の汚いペンキを落とすべきなのです。
 
>自分を他の人と比べるとわかることもあるようですが、
>比べる人によって、自分の心がよく見えたり、悪く見えたりします。
>優越感と劣等感の間を行ったり来たりして、
>ますます自分の心の姿がわからなくなるかもしれません。
 
それでも、人に教えようとしています。つまり、これは、他人へ向けたボロクソ節です。恐らく、シャローム氏は、自分の説教を、自分に向けたことがないのだろうと思います。つまり、推敲ができないので、書けば書くほど、的から外れて離れてゆくのでしょう。
 
>心もやはり曇りのない歪みのない澄んだ心という鏡が必要ではないでしょうか。
>どこにそんな自分の心の姿をあるがままに映しだす鏡があるのでしょうか。
>それにあまり、あるがままに映し出されても困ることはないでしょうか。
 
ゆがみのない澄んだ心、あるがままに映し出す鏡、言葉だけ飾って書く以外ないのでしょう。あるがままに映し出されて困るのは、嘘のペンキを塗りたくっているシャローム氏なのです。
 
「でしょうか」3連発、彼は毛ほどにも返事を待ってなどいません。返事も弁明もしなくてよいように、批判を聞かなくてよいように、コメント欄を閉鎖しているのです。
 
ただ神のまえでは、彼の背きの素顔は、明らかです。そして、その顔を隠して化粧していることも明らかです。いくら糊塗しても細工しても無駄なのです。
 
>自分の心のアラがはっきりと写し出されてしまったらどうでしょうか。
>正確に映し出すより、自分の心を見やすいように映してくれる方が楽ですね。
>そのためか、アラが見えないように似た者同士で集まりやすいこともあるようです。
 
そのために、シャローム氏は、社交の世辞が通用するお仲間だけで、無責任無反省同好会として、何も見ないで書き続ける運動を闇の中で展開し、お仲間の記事を利用して、お仲間を、せっせと滅ぼしているのです。本当に、彼は、人の迷惑を省みません。証拠がそろっても、まだ、同じ御託が通用すると思っています。この記事、ほとんど過去記事のコピペです。
 
>顔の化粧でも、心の化粧でも清んだ歪みのない鏡が必要なのですね。
>更にどんなに醜いシミやしわ、汚れがあっても、
>あるがままに愛し、受け容れる鏡だといいですね。
>さらに、どんな醜いシミもしわ、汚れを隠すのではなく、洗い清める鏡です。
 
神を鏡に喩えています。鏡に愛してほしいそうです。鏡に向かって嬉しそうに祈っているのでしょう、何でも美化し正当化してくれる鏡に。
 
>イエスさまはいつもシミやしわ、汚れのため、捨てられた人のところへ行かれました。
>イエスさまに出会い、触れられる人はありのまま受け容れられ、愛され、
>変えられました。イエスさまこそ人をあるがまま愛し受け容れ、
>清める鏡のような方です。
 
ありのままの姿を見せず、教条で化粧し武装して、自分は天国へ行くと信じ込んで訂正不能になっているパリサイ人が、つまりシャローム氏のような人が、キリストの敵でした。
 
>「そしてモーセが、消え去っていくものの最後を
>イスラエルの子らに見られまいとして、
>顔におおいをかけたようなことはしない。 
>実際、彼らの思いは鈍くなっていた。
>今日に至るまで、彼らが古い契約を朗読する場合、
>その同じおおいが取り去られないままで残っている。
>それは、キリストにあってはじめて取り除かれるのである。
>今日に至るもなお、モーセの書が朗読されるたびに、
>おおいが彼らの心にかかっている。
>しかし主に向く時には、そのおおいは取り除かれる。
>主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。
>わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、
>栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。
>これは霊なる主の働きによるのである。」
>(新約・コリント人への第二の手紙3章13~18節)
 
誰よりも主を裏切っているシャローム氏が、主と同じ姿に変えられていく、という聖句を、そのまま載せて、結びとしているのです。シャローム氏に当てはまる、自分信仰、超常信仰、教条主義が、いかに悪質かを知ってほしいと思います。
 
>神の平安がありますように!
 
気持ちを腐らせるシャローム氏の決まり文句です。これに類する言葉で、キリスト者や求道者を、どれだけ葬ってきたのでしょう。
 
 
ここからは、彼の過去記事を批判した私の過去記事を一部引用しておきます。
 
 私の書いた批判記事「心の化粧」
 2016/11/18(金) 午前 2:28
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/18852834.html
  
「引用はじめ (下記は批判対象記事です)
  
   心の化粧
   2016/11/17(木) 午前 8:3
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/27803293.html
  
   鏡よ 鏡よ 鏡さん
  2015/5/10(日) 午後 8:54
  
http://blogs.yahoo.co.jp/jordan_nobita/26617503.html
  
シャローム氏は、今回も、過去記事のコピペを載せています。彼の記事の特徴は、前提を語り、前提を讃美し、前提から何も発展しようがなく、前提をそのまま結論とします。彼は、何も考えないことを信仰だと思っているからです。だから、神の言葉だからと、繰り返すしかないのです。
  
心に響く文章というのは、うまいだけの文章ではなく、肯定するだけの文章でもなく、やさしいだけの文章でもなく、聖書が、あるとき読んでよかった、というだけではないように、感動というものから、読み手の心に、多くの広がりを与え、読み手を新たな問いへと向けてゆくのです。だから、同じことを繰り返すことではなく、インプットからアウトプットへ、読み手を、また書き手をも、解放し、開放してゆくのです。・・作文という点において、私は忸怩たる思いがあります。
  
 >自分勝手になり、自分中心になるのは、ある意味、自分を神とすることですね。
 >そのために人を責めたりしますが、また逆に自分を責め、不平不満の気持ち、
 >フラストレーションなどが起こってきます。
  
自分の非を決して認めない、彼、シャローム氏は、これを批判者に向けたいのかもしれませんが、一貫して、批判を読まず、批判をブロックまたは削除して、自己中心の絶対無謬を前提に、説明責任を果たさず、弁明できず、前に行ったことを繰り返してばかりいるのは、彼のほうです。彼は、恐らく、自分を責めることが出来ない人なのでしょう。
  
見た目を整えるために、彼、シャローム氏は、反対意見を、ブロックして見えないようにし、削除して葬り去り、人と比べて、落ち度のない、一角の人物の見た目を装っているのです。そう思われたいばかりに、化粧をして、神の前に偽り、同時に一方では、神を讃美しているのです。
 
彼は、いつも自分の思うとおりに救ってくれる魔法の鏡を好みますが、魔法ではない神の救いを、ずっと拒んだままです。そして、どこにもない魔法の鏡に頼り、あるがまま、を、偽善の罪を犯しても悔い改めず、罪のまま、義としてくれる鏡を欲しがっています。彼は、今日もまた、前と同じことを言っています。人の言うことを受けないと、こういうことしか言えなくなるのです。
 
キリストが、罪びとを訪ね、罪びとを愛したのは、彼らが、神の前に誇るものを何も持ち得ないで、ただ、砕かれた魂を持っていたからです。彼、シャローム氏は、前に使って通用しなかった詭弁を、また使っています。ありのままは、罪のままとは、180°違います。救われた人々は、罪を認めるか、押し付けられた罪に対して抗えない人々であります。彼、シャローム氏とは、全然逆の人々です。彼、シャローム氏は、救いに、ただ一つだけ必要な、砕かれて低くなった魂を持っていません。救われた人々と同じように見せかける詭弁によって、またしても、彼、シャローム氏は、偽善の闇を深くしています。
 
神の前に、心を砕かれていない者は、罪を悔い改めないまま救われると信じている者は、砕かれて跪くのではなく、破裂して分解するのを待つしかないのでしょうか。周りに害を及ぼすことのないように、どうか、彼に好意的に関わることだけはしないでください。
 
彼の記事を読んで、怒らないほうがよいでしょう。そういう人は、彼の不法に気付く人です。彼は、反対者を怒らせて、呆れさせて、去るのを待つというやり方で、ずっと難を凌いで、牧師然として、過ごしてきたのです。だから、怒るのは、彼の思う壺なので、精神衛生のために、怒らないほうがよいのです。彼は、自分の意見の正当性を主張するために、そのような方法しか思いつかないで平気でいられる悪意を、その丁寧語の裏に隠し持っています。・・怒りのために、しばしば要点を見失う私は、怒らないという点でも、忸怩たる思いがあります。
 
シャローム氏は、牧師の経歴を持っているらしいが、だからこそ、恐ろしいのです。30年以上、誰も見抜けなかったということです。その仕組みは、上のようなしのぎ方と、讃美を専らとすることで、熱心なのだろうと思わせることです。
 
あまりにもキリストから離れてしまって、彼は、ホラーの世界から、黒いものを吐き出すように、記事を書き続けていますが、彼の書いた記事が、彼の背きと、無理解と無反省を浮き彫りにしてゆく結果と経過になっているのです。彼は、そういうことを自覚できないのです。だから、彼の知らないうちに、事態が悪化していっても、彼は、勝つことが、負けないことが、目的なので、彼は・・勝っているつもりなのです。その立場から、愛を施しているつもりなのです。・・気持ち悪いです・・
 
 引用終わり」
 
前のほうが、私の記事は、マシだったような気もします。まだ元気があったのでしょうね・・。
 
シャローム氏は、あらゆる意味で、さまざまな視点から、彼の文章から言動から、キリスト者ではありません。キリスト者であるためには、悔い改めなければなりませんが、彼は、今までそうだったように、それだけはしないのでしょうね・・。
 
 
(2017年11月09日、同日一部修正)
 
 
 
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