宗教的確信
 
 
確信を持つということがある。
こうとしか考えられない
とか
何を言っているんだ!
という言葉がついてきたりする。
 
確信同士がぶつかり合うと大変だが、
多くは
少しは反省する。
 
確信が宗教で
神についての訂正不能の確信となると
悲劇が起こる。
 
実は自分の確信だと気づかずに
実は自分の解釈だと気づかずに
 
神への信仰を
神への、人の信仰だと気づかずに
 
神を信じているんだと、
疑ってはならないと、
揺らぐものかと確信したまま
 
相手のせいにする。
 
ときには神の敵とみなして
迫害を受けたかのように顔色を変えて
口をつぐんで去る
 
なら、まだいいほうで、
 
ときには相手の滅びを念じて
神の復讐を祈り願う聖句を出してくる。
 
というふうに増悪し、さらに、
 
悟らない下等動物を上から見るような
憐れみの眼差しを向けるのは
 
もはや偽善だ。
 
そして憐みの言葉を吐いて、
自分を見つめなさい。
 
これは、言われるたびに
そのまま返される言葉
 
はっきり言って
根拠のない憐れみの忠告は
 
いやがらせの捨て台詞だ。
 
神の前で
人間の確信などは糞尿のようなものだ。
 
日々入力と出力に生きている人間であるのに、
学習も成長も考えないで
訂正不能の人の言葉で事足りる神の真実がどこにあるというのか。
 
人の真実は不完全であり
折に触れて
信仰の成長による修正が不可欠である。
 
 

修正可能な成長可能な信仰の相対性に生きることに気づかず、
修正不能に固まっている者がいます。
 
 
(2017年11月23日)
 
 
 
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