マリアとマルタの愛
 
 
前に、香油をキリストにかける話がマルコ書とヨハネ書に出てきましたが、それと同じ場面ではないだろうかと思われる箇所がルカ書にあります。さらに、ルカ書には、香油をキリストに塗ったのは、別の、罪の女として書かれています。後者ルカ7:36以降は、端折って引用します。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:38
一同が旅を続けているうちに、イエスがある村へはいられた。するとマルタという名の女がイエスを家に迎え入れた。
10:39
この女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、御言に聞き入っていた。
10:40
ところが、マルタは接待のことで忙がしくて心をとりみだし、イエスのところにきて言った、「主よ、妹がわたしだけに接待をさせているのを、なんともお思いになりませんか。わたしの手伝いをするように妹におっしゃってください」。
10:41
主は答えて言われた、「マルタよ、マルタよ、あなたは多くのことに心を配って思いわずらっている。
10:42
しかし、無くてならぬものは多くはない。いや、一つだけである。マリヤはその良い方を選んだのだ。そしてそれは、彼女から取り去ってはならないものである」。
 (ルカ10:38-42、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
7:38泣きながら、イエスのうしろでその足もとに寄り、まず涙でイエスの足をぬらし、自分の髪の毛でぬぐい、そして、その足に接吻して、香油を塗った。
 (ルカ7:38、新約聖書)
 
愛は
最終的に
存在への愛に向かう
 
いてくれて ありがとう
 
マリアには
今ここに
救い主がいることがすべてだった
それだけで胸がいっぱいで、
マリアは、かたときも
キリストのそばを離れたくなかった
 
マリアの
この一途さはエロスの愛に似ている
 
そして
キリストは
それを喜んだ
 
マルタが
ひどく信仰に反していたとは思えないが
接待することで心を煩わせて
マリアを叱ってくれるよう言ったことに
キリストは答えたのだろう
 
それぞれ役割と情熱があるけれど
マリアのキリストに対する役割と情熱を
とがめる権利はマルタにはない
 
マリアは
そのときの偽りのない心で
キリストに聞き入っており
 
マルタが気づいていないのは、
マリアが叱られるべきならば
キリストが叱っているはずだということ
 
 
目に見えるキリストは
いつまでもいるわけではなかった
 
いてくれる
 
ということが
不可能に近いくらいの
驚きと喜びのひとときであったのだろう
 
いてくれる
 
これが
他のすべてを忘れるほどの
目いっぱいの感謝に値する
 
ときがある
 
 

 
ここで大切なのは
キリストの存在だけではないのかもしれない
 
愛は
最終的に
存在への愛に向かう
 
いてくれて ありがとう
 
人もまた
いつまでもいるわけではないのだ
 
 
(2017年11月24日、同日一部修正)
 
 
 
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