聖霊と信仰
 
 
改めて聖霊について考えてみます。
 
 (ヨハネによる福音書、口語訳)
14:25
これらのことは、あなたがたと一緒にいた時、すでに語ったことである。
14:26
しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってつかわされる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、またわたしが話しておいたことを、ことごとく思い起させるであろう。
14:27
わたしは平安をあなたがたに残して行く。わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。あなたがたは心を騒がせるな、またおじけるな。
 (ヨハネ書14:25-27、新約聖書)
 
聖句にあるように、キリストの昇天後は、キリストの名によって、目に見えるキリストの代わりに、聖霊は遣わされ、人が怖気づかないように、必要なことを言えるように導く。したがって、ことさら、聖霊体験があったことをひけらかす必要はない。聖霊が、超常の御方のように働くか、人知を助けるように働くか、人には分からないからだ。
 
聖霊が、もし超常の御方としてくるのであれば、聖霊を受けた者は、それに相応しい言動を示すだろう。すなわち、神に等しい言動によって人の目を覚ますことができるだろう。それ以外の者は、聖霊について多くを語るべきではない。この場合、聖霊は神であり、超常であって、人の知恵の及ぶところではないからだ。
 
聖霊が、もし人知で分かる働き方であるならば、聖霊は、来たことを知らせたりはしない。人にとって、人の世界で分かるようなあり方しか取らないだろう。その時々の、ひらめきのように、ひそやかにその人の目を覚まし、あることを為し、あることを言うように働くだろう。人は、それを聖霊とは受け取らず、思い浮かんだこととして、使命を果たすだろう。
 
それは、ひそやかであるので、実際、ひらめきが聖霊であるかどうかは人には分からないだろう。聖なる御方の意志と行為を決めつけてはいけないとは、このことである。
 
聖霊が人が気付かないように働くならば、それは超常としての認識ではなく、愛であるから、希望であり、つまるところ、信仰そのものである。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
4:1
さて、イエスは聖霊に満ちてヨルダン川から帰り、
4:2
荒野を四十日のあいだ御霊にひきまわされて、悪魔の試みにあわれた。そのあいだ何も食べず、その日数がつきると、空腹になられた。
 (ルカ4:1-2、新約聖書)
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
10:21
そのとき、イエスは聖霊によって喜びあふれて言われた、「天地の主なる父よ。あなたをほめたたえます。これらの事を知恵のある者や賢い者に隠して、幼な子にあらわしてくださいました。父よ、これはまことに、みこころにかなった事でした。
 (ルカ10:21、新約聖書)
 
聖霊は、まず、福音書の中で、キリストの誕生と登場を告げ、キリストに下り、キリストは聖霊によって語った。聖霊体験者の筆頭は、キリストに他ならない。聖霊によって、神について多くを語る資格を持つ者は、キリストと同じ位階を持つほどの御方か預言者である。そういう者は、奇跡と同様に、めったに現れるものではない。
 
 (ルカによる福音書、口語訳)
12:10
また、人の子に言い逆らう者はゆるされるであろうが、聖霊をけがす者は、ゆるされることはない。
12:11
あなたがたが会堂や役人や高官の前へひっぱられて行った場合には、何をどう弁明しようか、何を言おうかと心配しないがよい。
12:12
言うべきことは、聖霊がその時に教えてくださるからである」。
 (ルカ12:10-12、新約聖書)
 
迫害と殉教を意識したキリストの言葉であり、キリストが通った道である。ここでも、聖霊が導くことを伝えている。聖霊は、キリストそのものという位格を持ち、信仰そのものという働きを持つことを伝えている。
 
神を恐れる信仰の節操を持たず、聖霊体験を豪語する者は、傲慢のために信仰を損なっているゆえに、信仰そのものである聖霊によって語ってはいない。神は、私たちに、分かることか分からないことかが区別できるように、聖霊も、人も、働かせているのに、全か無で、聖なる気分を聖霊と呼んでいる者が、節操もなく、聖霊体験を振り回すならば、それは、直接、聖霊もキリストも神も冒涜する行為である。
 
私たちは、聖なるものになるために、また、聖なるものを知るために、信仰を持つのではない。キリストの愛は、正しい者に注がれたのではなく、正しくないことを知っている者と、正しくないと決めつけられて何も隠せなくなっている者に注がれた。これらの人々は、神の前に、飾らず、飾れず、嘘をつかず、嘘をつけず、という、目いっぱいの正直を認められたのである。
 
したがって福音書から明らかなように、神によって、私たちは、正しかろうが正しくなかろうが、温かい血と、悲しみの涙を持ち、よく感じ、よく考える人間であることが求められている。神のほうを向く、とは、そのような人間になろうとする意志と希望と祈りを持つことである。
 
それ以上を求める者は、神とつながって人間を超えるものになりたいという欲を持つ者たちであり、人間以上の超人か聖人になろうとして聖なる領域をけがし、まずダイレクトな報いとして、人間以下になる外道を歩む者たちである。
 
 
(2017年11月26日)
 
遣わす(つかわす)
怖気づく(おじけづく)
相応しい(ふさわしい)
冒涜(ぼうとく)
 
 
 
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