悪霊と人間
 
 
私は聖書を読んでも悪魔と悪霊の区別を明確には付けることができません。今回は、悪霊について少し長めに聖書を引用してみます。
 
地上にいるもので、人間よりも神に従順で神を分かっている者は誰でしょうか。私は、それは悪魔または悪霊ではないかと思います。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
8:28
それから、向こう岸、ガダラ人の地に着かれると、悪霊につかれたふたりの者が、墓場から出てきてイエスに出会った。彼らは手に負えない乱暴者で、だれもその辺の道を通ることができないほどであった。
8:29
すると突然、彼らは叫んで言った、「神の子よ、あなたはわたしどもとなんの係わりがあるのです。まだその時ではないのに、ここにきて、わたしどもを苦しめるのですか」。
8:30
さて、そこからはるか離れた所に、おびただしい豚の群れが飼ってあった。
8:31
悪霊どもはイエスに願って言った、「もしわたしどもを追い出されるのなら、あの豚の群れの中につかわして下さい」。
8:32
そこで、イエスが「行け」と言われると、彼らは出て行って、豚の中へはいり込んだ。すると、その群れ全体が、がけから海へなだれを打って駆け下り、水の中で死んでしまった。
 (マタイ8:28-32、新約聖書)
 
この聖句からは、悪霊は、目の前にいるのがキリストであることを知っており、キリストを恐れていることが分かります。悪霊は、敵わぬと知って、自滅の道を選びます。悪霊は、キリストを殺せません。また、福音書から、悪魔の誘惑に、キリストは負けませんでした。悪魔は、キリストを殺せません。そのキリストを殺したのは誰でしょう。他でもない、人間です。
 
私たちは、キリストを殺した人々と比べて、特に優秀でも、特に善人でもありません。変わらぬ信仰といっても、私たちは、どこが変わったか、変わっていないか、心の中を、隅々まで、分かっているわけではありません。キリストを殺した人々になく、私たちにあるのは、小さくて弱いが主の前に正直でありたいと願っている信仰だけなのです。その私たちがどうして、確定して揺るがない結論なんて述べることができるでしょう。
 
悪霊は、分かっているから、隙を突こうとしますが、
悪霊は、聖霊に敵わないことも分かっているのです。
 
人間は、分かっていないから、ときに、とんでもない大罪を犯してきた歴史があります。
 
それは、ある意味、必然であり、人間が、反逆の民と言われるゆえんです。だから、信仰によって、しっかり分かるようになろう、というのは無理であり、そのように造られてはいない、としか思えず、ゆえに、神を分かることが信仰ではないということです。
 
預言者たちと同じように、キリストも、人間によって殺されました。私たちが十字架の話をするときに、十字架から、あまり間を置かずに、復活の話に持っていって、心配ないという結論にするのは、死を避けようとする短絡であり、絆創膏を傷に貼り付けて傷を見えなくするようなものです。復活したから、いいじゃないか、ではありません。復活したから、ありがたいと、讃美と感謝だけ、ではいけません。
 
キリストの死は、復活以上に、重要な意味を持ちます。二千年前のキリストの肉体の復活が史実だと言ってきかない執着は、キリストの心を見ることができず、神の業なる奇跡によってしか、信仰を理解できない者たちの教条です。そこから、私たちに、今、最も必要なのは、キリストの奇跡ではなく、キリストの心だということです。
 
なぜキリストは人間に殺されたのでしょう。罪の贖いのため、という合理化だけではいけません。キリストには、パリサイ人や祭司などの、偽善者集団が、敵対し、キリストを殺したのです。彼らは、人間でした。この人間たちから、現代を生きるキリスト者は自分を除外してはいけません。私たちは、他でもない、反逆の民として生きているということです。
 
具体的に神に反逆しているかどうかは神の裁きに委ねられており、今の私たちには分かりません。私たちは悔い改めて神の民となった人間ですが、死ぬまで罪は赦されている、などと思ってはいけません。それは予定調和の思い込みです。その予定調和を避けるためには、キリストは自分のために死んでくださった、ありがたや、感謝、讃美、ではないのです。これは予定調和の強化になってしまいます。
 
十字架に込められたキリストの悲しみゆえの憐れみこそが愛なのですから、予定調和を避けるためには、キリストの十字架に感謝するだけではなく、ましてや讃美するだけではなく、私たちは、キリストの愛を言葉だけで強調するのではなく、キリストの悲しみに、折に触れて、共感することが必要であります。それが、私たちの犠牲となったキリストの愛を知る術でありましょう。最も大きい愛は、悲しみから生まれる愛だと思います。
 
ありがたがるだけの愛は、人の世の常として、いずれ乾いて潤いを失い、温もりも失い、心の響きを失った教条となってしまいます。
 
キリストの贖いと復活を讃美しても、キリストの十字架の苦しみと死を悲しまないのはキリスト者として恥ずかしいことです。何故なら、悲しみと喜びの両方が起こっているのに、嬉しいという片方だけを信じるのは、人間としての正常な感受性を持たないで神を信じる、と言っているに等しいからです。人間として受け取れることは、努めて、受け取るべきなのです。
 
私たちの信仰のあり方については、福音書から、キリストに救われた人々を知ることで、ある程度、分かることもあるでしょう。また、キリストが厳しく批判し、それゆえにキリストを殺したパリサイ人などの抵抗勢力の有り様を見ることによって、つまり、非を見ることによって是を知る、という読み方があります。
 
パリサイ人には、教条はあったが、愛はなかった。その有り様が、彼らの信仰?だったから、キリストは登場し、彼らを批判したのです。パリサイ人は、戒律の表面的なところに執着し、すなわち教条に執着し、肝心の憐れみを持たず、愛の実践をする気がなかったのです。いつまでも続く愛が、彼らには途絶えていました。
 
したがって、彼らパリサイ人がどんなに旧約聖書に詳しくても、彼らの信仰には、血と涙、温もりと潤い、情感と悲哀に共感する心がない、すなわち、愛がないために、希望を見出すことができず、言い張りだけが残ってしまったのでしょう。さらに悪いことには、それを自覚もせず、ゆえに反省もせず、そこに安住してしまったから、キリストが邪魔になるだけで、キリストの言葉に込められた大切なものを見出せなかったのでしょう。
 
いつも悲しんでいなさい、ということではありません。潤いも温もりも喜びをも生みます。しかし、潤いと温もりから生まれた喜びは、言い張りではなく、装いでもなく、お祭り騒ぎでもなく、しっとりと心を濡らして、息と命を生み出すものだろうと思います。
 
ですから、折に触れて、悼む心、悲しみに共感する心がないと、信仰は人間離れしてゆきます。人間離れが進むと、元に戻れなくなるでしょう。そういう人は、実際にいます。
 
悲しみに共感する心からしか温もりは生まれないような気がします。そして、温もりがなければ、愛ではありません。つまり、私は、
 
最も深い、本当の愛は、
いつも、もとをたどれば、
悲しみから生まれている
 
本当の愛は、
悲しみをくぐり抜けるほどに深くなるだろう
 
と言ってしまいます。悲しみを求める必要は全くありませんが、聖書を読むとき、自分を振り返るとき、今、性欲や善の高慢ではなく、本当の愛があるなら、そこには、くぐり抜けてきた悲しみの経緯があるだろうと思います。
 
この悲しみについては、今、あるいは、いつも、実感を持てということではなく、それを心に置いておくことが大切だと思います。そうすれば、思い起こす時もあるでしょう。そうしなければ、お祭り騒ぎの信仰?が続くだけでしょう。鐃鉢や銅鑼やシンバルのように。
 
信仰もまた悲しみを経て生まれることがあり、そこから育ってゆくのでしょう。大方は静かで、時に情熱的です。時に乱れることもありますが、艱難を克服して成長し、新たになるでしょう。信仰は、目に入るものを無視せず、打たれながら、受けながら、忍耐力と回復力を養ってくれるでしょう。決めつける必要は、どこにもないのです。
 
 
私は今、正しいと思って書いていますが、私は、痩せても枯れても、また、太っても多弁でも、人間ですから、私の記事は、正しさの絶対性を持ちません。考えたことを書いてきました。それ以上のことを書いた文章を読んで感動すれば、また、別の視点で書くことがあるでしょう。
 
信仰と希望と愛を求めるうえで、いちばん大事なことは、いろんなことがあっても結局は修正可能であることです。そのことが、悔い改めの告白につながり、成長を可能にし、道を踏み外したとき、あるべき姿に戻ることにもつながります。信仰は、ころころ変わってはいけないけれど、変わる余地がなくなったら、教条に縛られた人生になります。
 
 
(2017年11月27日、同日一部修正)
 
敵う(かなう)
神の業(かみのわざ)
術(すべ)
経緯(いきさつ、けいい)
艱難(かんなん)
鐃鉢(にょうはち)
銅鑼(どら)
縛る(しばる)
 
 
 
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