これも前に書いたとは思いますが・・
 
 
  試練と恵み
 
 
前に、試練と恵みは同値だ、と書きました。
本質的には区別できないものを
人間が分けて受け取っているだけ
という意味で言っています。
 
試練は耐え忍ぶもので、苦しいこともある。
試みに会わせず・・という主の祈りもある。
 
恵みは賜物であり祝福である。
 
しかし人間の能力の限界を考えると、
 
恵みと思って楽しんでいたら、
思い上がって罪を犯すこともあるでしょう。
また
別の人には災いしている
ということもあるでしょう。
 
また試練と思って苦しんでいたら、
実は、より大きな災いを避けることにつながったり、
耐え忍ぶ力と動機が強くなるなら、
それは恵みです。
 
人間のほうが勝手に
大方は快楽原則で
恵みだ試練だと区別しているのです。
 
御心は測りがたく、
また、試練と恵みは複雑に絡み合い、
限りある人間には判断できないことがあるので、
決定的な違いを人は即時には知りえないことを、
どちらも神から与えられるものとして、
人間にとっては同値だと言っています。
 
ですから、私たちは、
神によって、導きを通して
いつも、恵まれ、試されている
と言ってもよいでしょう。
 
でも、私たちは、表面的に感じることで、
これは恵みだ、とか、試練ですね、とか言ってしまいます。
言ってはいけないと言われても言ってしまうことはあります。
そういうことが多い人間にとって大切なことは、
 
時が満ちるときのために
反省し修正ができるようにしておくことです。
 
言い換えると、信仰については何事も
決めつけて修正不要にしてはいけないし、
人は修正不要を持つに値しない。
自分が持ったものに隷属してしまうからです。
 
揺るがない修正不要は神のみの持ち物です。
神の持ち物と同じものを人が持つことはできません。
 
人が修正不要を持ってしまうと、
神が人を揺さぶるときも気づかなくなるでしょう。
 
私たちは、試練と恵みの違いを、神のようには知りえない
ということを申し上げます。
 
さらに、試練だ、恵みだ、
今度は何だろう、とか言っていることで、
神の意志と行為を決めつけるならば、
不遜の罪なのです。
 
決めつけは、心の中の偶像です。
偶像によって訂正不能になってはいけません。
そして、何よりも大事なことは、
偶像かそうでないかを
私たちは決定的に区別する術を持ちません。
 
神が導かれるから大丈夫です、
と言ってしまえば、それは、
人に対しては根拠のない空約束であると同時に、
神に対しては成り行きが神の導きであるかどうかが
自分には分かるという不遜を重ねることになります。
 
人にとっては、すべての成り行きが神の導きだ
というのは、ある意味、真実かもしれないが、
だから、いつもそのままでよい
と思うべきではありません。
悪魔の誘惑もあるのですから。
 
信仰は難しくはありませんが、
神より低い存在の敬虔の態度
という簡単なことをも弁えない人にとっては、
つまり神と人との決定的な差さえも弁えないならば、
たくさんの罠や落とし穴が待っているということです。
 
その罠に自ら嵌って
不感不応の迷惑宣伝症候群とでも言うべきものになった人がいます。
 
信仰にとって最も大事なことは、
私たちが、神の下にあり、神よりも劣っており、
神の支配さえも決定的には感知しえない、
ということであります。
 
私たちに必要なことは、
時々に、
受けたものや訪れたことに対して
賢明でありたいと懸命に取り組む姿を
神に見ていただくことに他なりません。
 
神の前に、
いつの日も
自らを振り返って
これが精いっぱいです
と赦しを乞うことができますように。拝。
 
 
(2017年11月28日、同日一部修正)
 
術(すべ)
罠(わな)
 
 
 
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