キリストの復活
 
 
キリストの復活については、前にも何度か書いてきたと思います。霊的復活を信じている人と、肉体の復活も信じている人がいるようです。肉体の復活だけを重視して、それで完成したかのように悦に入っている心無い人もいるようです。
 
霊的復活は、精神的復活と言ってもよいし、キリストの心は死んでいないと言ってもよいでしょう。これは、現代において、自分というキリスト者が誕生したのは、聖書のキリストの言葉によるところが大きいので、否定できないことです。
 
肉体の復活についてですが、二千年前のことです。例えば、仮に、肉体の復活を支持するような歴史的証拠が見つかって、ほら、やっぱり、と言われるようなことになり、肉体も復活したのだろう、ということになって、もちろん、大昔のことについては、証拠と言っても、可能性が高まると言うだけであって、歴史的事実が確定するということ自体がないのではないかと思いますが、肉体復活説が有力ということにはなったら、という場合を考えてみます。
 
しかし、その場合を考えると、二千年前に、聖書に書いてある通り、肉体が復活したことが、今の私たちに、どういう助けになるだろう、ということを考えてしまいます。今、キリストは、目に見える御方としてはおられないのですから、二千年前の事実が、今を変える要素は、ほとんどないのではないかと思われます。だから、何も変わらないと思います。奇跡は、神のものなのです。
 
むしろ、肉体の復活にこだわる者たちが、もてはやされるようになることは、キリストの悲しみと愛の心を考えるキリスト信仰においては、決して、よいこととは思えません。というのは、稀ながら肉体の復活を強く言って、これがないと信仰ではないかのように主張する向きもあり、そういう人は、往々にして、霊的復活にも、キリストの心にさえも、無頓着になっているさまを見てきたからです。
 
前にも書いたように、奇跡は、否定はしないが、めったに起こらないから奇跡なのです。その奇跡が起こることを信じるのが信仰だと信じている者は、奇跡ばかりを求めて、聖書を読むときにも、心を大切にしない傾向があるようです。そのために人間の豊かな感性や思慮が疎かになる恐れがあると申し上げておきます。奇跡信仰者は、肉体の復活を信じて、どういう幸いを期待しているのでしょう。まさかとは思いますが、自分もこの地上で死んでも復活すると思うのでしょうか。それこそ、ホラー以外の何物でもないのです。
 
キリストの肉体の復活は、興味本位の人々によって話題になっても、決して、キリスト信仰において、重要なことではありません。大昔は大昔です。奇跡信仰者は、肉体の復活を声高に主張して、人は信じなくても自分は信じていると言うことで、自分はこんなに信仰が厚い、と言いたいだけのように思われます。むしろ、不浄に思えてなりません。
 
実際には、聖書に書いてあるようにキリストが肉体をもって復活したかどうかは、この地上では、終末まで分からないでしょう。分かりもせぬのに、あった、なかった、と結論や決めつけを欲しがる傾向は、慎むべきことだと思います。肉体の復活にこだわることは、血も涙も息もないのです。温もりと潤いと命の問題ではないということです。それよりも、もっと、私たちは、信仰において、無くてはならぬものを求めるべきです。
 
信仰は、教養ではありません。自分の格を高める知識でもありません。信仰は、これがなければ生きてゆけない、と言うほどの必要として、感受と思考という人間性を通して、情性と知性の全人格的な成長を期しています。それを誰かに自慢するのでは決してなく、ただ神に捧げて、その愛に生きられるようになってゆくことを祈ることなのです。言葉に表せば、愛、ということになりますが、言葉だけでは表せないものを、求めるようになるでしょう。その、もどかしさゆえに、祈りが必要になるのです。
 
私たちの信仰は、今を生きるためにあります。キリストの心も、私たちが今を生きるために、たとい霊的であっても、今も生きておられます。それで十分なのです。聖書には、復活後、昇天したと書いてあるキリストです。だから、目に見えないキリストの、御心を聖書から学んで、しばしば、その御姿を想像しながら、キリストと呼んで、主イエスと呼んで、その御名によって、祈っているのです。
 
 
(2017年11月29日、同日一部修正)
 
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