孤独死
 
 
自分が死ぬときに、
見守り悲しむ家族も友人もいない。
後始末という迷惑をかけるだけ。
よいものを残した手ごたえがまるでない。
みんな自分を見限って去って行った。
 
わが神、わが神、何ゆえ我を見捨てたまいしか。
 
このような孤独死を前に
今生きている幸いを感じないのが
最も大きな人間の不幸
 
だとしたら
 
生にも死にも
何の救いもないと感じるだろう。
 
そのようにだけはならないように
生きているといっても過言ではない。
 
でもそれが愛する理由なのか。
それが生きる理由なのか。
 
愛はそれだけではない。
愛は見返りを求めないはず。
愛するべきだから愛するのだ。
 
冒頭の心を人間として感じながら、
最大の不幸を背負ったのがイエス・キリストである。
 
その使命と
死の空しさとの抗争が、
上の聖句とともに聖書には記されている。
 
イエスという名のキリストが
人間として苦しみながら、
負けなかったのは、
人間世界から
神へ捧げる最大の
唯一のいけにえとしてであり、
最大の不幸を背負い
絶対孤独を克服する啓示であり、
ゆえにイエスという名のキリストを伝えることは
福音と呼ばれる。
 
 
ここで
キリストはそんな御方ではないと、
使命を完成したのだと、
だから復活したのだと、
神を讃美して身構えるなら、
 
キリストの純粋神格の教条のみを強調して
キリストの人間性を否定し、
人間的共感を否定するなら、
 
なぜキリストが
人間として生まれて生きる必要があったのかを
考えていない証拠だろう。
 
神格だけなら、
キリストは神として降りてくればよかっただろう。
あるいは
天から神の声を発しておればよかったはずだろう。
あるいは
聖霊だけ降りてくればよかったはずだろう。
 
キリストが人間性ではなく
人格を超えた神格としてのみ振る舞うのならば、
人間として生まれてくる必要はなかったはずだ。
 
 
キリストの神格は神のもの。
私たち人間は、
与えられた思慮と共感性をもって
キリストの人格に学ぶことが不可欠である。
 
 
(2017年11月30日、同日一部修正)
 
 
 
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