事実と真実
 
 
信仰者はどう答えるでしょうか。
キリストの肉体の復活は実際に
あったかなかったかについて。
 
あったと信じる
 
なかったと信じる
 
いずれも間違いです。
 
これは最初の試練なのです。
 
二千年前のことは、
正直に分からないと言いましょう。
 
あったと信じなければ神は救わないと言って
脅迫する人は、奇跡だらけの魔界を信じているだけです。
キリストが遣わされたのは、そのような目的ではありません。
 
ここで問われているのは、
魔界の魔物として生きたいか、
人間として生きたいか、ということです。
 
 
事実の解明は信仰の目的でも仕事でも使命でもありません。
 
事実だと信じることは信仰ではありません。
 
事実に関わりなく
 
人間が生きるために不可欠なことを真実と言うのです。
 
信仰は真実を学ぶことである
ということは言うまでもありません。
 
 
その他の奇跡も同様です。
 
二千年前の奇跡は分かりません。
 
また
肉体や物の奇跡が起こらないと生きられないなら
人類はとうに滅びています。
 
肉体や物に起こる奇跡だけでは
心は開かず、ただ驚き怪しむばかりでしょう。
それだけの相手なら魔法使いと思うだけです。
本当に必要なものから目をそらさせ
人を怠け者の身の程知らずにします。
 
物や肉体の奇跡を求めることは、
自分だけよければよい
という
自分は特別に価値がある
という
自分に対する神の導きを自分で決める
という
我欲に他なりません。
 
肉体や物の奇跡が心を開かせるのは、
同時に魂の奇跡が起こっているからです。
超常ではなく、関わりの経緯の中で
キリストの言葉とともに
人間の心に起こっているのです。
 
 
今、生きていて、
奇跡が必要なのは魂においてであります。
 
魂に起こる奇跡は心を開かせます。
さらに他者の心も開かせるでしょう。
そして駄目になりそうな命を生かします。
これが私たち人間の理解するべき復活なのです。
 
 

なお、ここで、魂という言葉は、心、霊、精神、といった言葉と、信仰上であっても、人間には厳密に区別できないだろう、ということを前提として使っています。
 
 
(2017年12月01日、同日一部修正)
 
 
 
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