霊
「キリストの復活」へのコメント
よなたん様から興味深いコメントを頂きました。(挨拶部分は省略します)
「寄せられたコメント:
肉の復活は否定する必要もないし、復活の意味もよくわからないので「信じます」以上の議論は必要ないでしょう。
一方の「霊的復活」という不思議な響きを持つ言葉に戸惑っています。
考えてみたのですが、
キリストの死によって人間の精神から神が死に、キリストの復活によって私たちの中で神が復活したというようなことになるでしょうか。そして、その霊的復活は2000年前の出来事というだけではなく、今でも同じように行われており、わたしたちは霊的復活により回心しているということになりそうです。
となると、時空を超えて存在する神はわたしたちの中で死と復活を繰り返しているということですかね。
ただ、「肉体の復活」という言葉と「霊的復活」という言葉は別の視点から見ている言葉のように思えて仕方ありません。
こう書いてはみたものの、やっぱりもやもや感が残っているので、もう少し考えてみることにします。
2017/11/30(木) 午後 9:31[ よなたん ]
寄せられたコメント:ここまで。」
「私のコメント4つ:
復活という言葉で、そう思われるのだろうと思いますが、キリストが死んだ、ということからの連想に他なりませんので、復活は、いや、肉体は死んだが、キリストの霊は、死んでいない。それによって、福音伝道が始まり続くのだから、それは、復活と言うに値するくらいの意味で使っています。つまり死んで忘れ去られるのではなく、むしろ福音伝道に生きたことをもって、通常の死ではなく、復活と書いたものです。
霊的という言葉で、何か特別のものを感じておられるのでしょうか。記事にも書いてありますように、精神とか、心とか、と、霊を人間は区別できないと思います。
それと、記事はキリストの霊的復活ですが、現代において霊的復活するのは、むしろ私たち人間だと思うのですが・・。キリストの霊でも、心でもいいですが、今、生きて、あきらめのどん底から、立ち直ることを、生き返る復活と呼んではいけないでしょうか。
前に、長く批判してきた人が、心のどこを探しても信仰はない、と言ってきたことがあります。では、どこにあるの?・・という話になります。その人は、どうやら、心と呼んでいるものとは別のものを想定しているようでしたが、それは人間に分かるものではなく、心と区別できるものでもなく、神がそう見なしているものであって、人知を超えており、私は、人間に分かるものからしか人間の信仰は生きてこない、人間に不明なものは神に任せるべきだ、という考えです。
霊というものが、信仰において特別な存在であるなら、それは、まず、人間に、こうだよ、と説明できるものではないような気がします。したがって、人間が、霊、という言葉を使って、人間に思考の材料を伝えることはできないだろうと思います。聖霊も悪霊も、人間存在の霊も、人間に扱えるのは、心を超えたところにはないでしょう。霊というものがダイレクトに分かるときが来るかどうかは分からないけれど、それを含めて、神の領域は、神に任せるしかないだろうと思っているわけです。
私のコメント4つ:ここまで。」
「コメント欄つづき:
今までも、してきたことですが、読者一般に思考の材料を提供する意味で、コメント欄に書かれたことを、そのままか、少し編集するかして、記事にすることがあります。その点、ご承知おきください。HNを出さないでほしい場合は、その旨、コメントください。
2017/11/30(木) 午後 10:50[ st5402jp ]返信する
4レスも書いてしまいましたが、よなたん様の意見に反応して久しぶりに議論的な思考が亢進したようです。刺激を与えてくださったことに感謝いたします。
前は、50コメ、100コメ、のやり取りもありましたが、最近は、批判ばかりして、しかも反応なしでしたので、眠っていたような感じでした。
2017/11/30(木) 午後 11:24[ st5402jp ]
コメント欄つづき:ここまで」
私は議論は苦手であることを思い出しました(汗)。夢中になって脇道にそれたり、怒ったり嘆いたり、書き忘れたことを後で悔んだり、いろいろ・・。
「コメント欄つづき:ここから
わたし自身が霊という言葉に連続的なイメージ(時間上も空間上も)を重ね合わせているので、生と死という表裏のようなイメージを持っている世界とギャップがあるように感じていたようです。さらに復活は、生と死の2面的な領域を超えるダイナミックなイメージがありました。混沌としたイメージの話で申し訳ありません。
ここでは精神世界の中にも生死の領域の概念を持ち込み、そのダイナミックな動きを死と復活という表現で表されているんですね。どうにかイメージが作れるようになってきました。生死を連続的なものとして扱ったところが疑問だったのかもしれません。でもその考えはアリだと思います。むしろ霊と生死が融合されたイメージで正解に近いかもしれません。
霊のことも生死のことも直接分かる日が来ることはないでしょう。「神の領域なので、神に任せるしかない」とはその通りだと思います。そして、人間の心の奥底は神につながっており、祈りを通して神に働きかけることもまた必要でしょう。そこからかすかに分かることがわたしたちに許されていることなのかもしれません。
2017/11/30(木) 午後 11:27[ よなたん ]
私は、神学も教理も正式に学んだことがない、一信徒に過ぎませんので、言葉については、一般的な使い方になるだろうと思います。その点で、くいちがいもあると思いますので、よろしくお願いいたします。
また、ゆるゆる私なりに考えてみます。
2017/11/30(木) 午後 11:54[ st5402jp ]
コメント欄つづき:ここまで」
私は、霊という言葉を、心や精神と同じような意味で使ってきたので、肉体の復活に対して、たいして考えもせずに、霊的復活と書きました。これは、心または精神の復活、心または精神は死んでいない、と書いても同じ意味・・として書いたものです。私は、超常の霊はこういうもの・・ということについては分からないし書けないし書かないだろうと思うので、宗教的な霊という意味からは外れるかもしれません。
考えてみると、心や精神というと、肉体が死ねばなくなるもの、という見方をすることが多いように思われますが、一方、霊や霊魂というと、幽霊という言葉もあるように、不滅の存在という意味を持っていそうな気がします。そして、霊は、心や精神よりもやや重く深い印象を受けます。
ずっと前に聞いた復活についての話で、誰かが、肉体は死んでもキリストのスピリットは滅びない、というようなことを聞いたことがあります。それと同じようなことかもしれないが、スピリットを、霊と表せば、日本語でも、もっと重く深い超常のような気がしてきます。
私としては、霊と表しても、軽くはなく、かつ、超常でもない、人間の感性と知性でも受け取れる範囲の意味として使っています。それで、心や精神というものに近くなり、厳密な区別ができないものになります。
神を全知全能と信じたのなら、その全知において、神は、人がどんな言葉を使っても、その人の心や精神と、その思惑、その理解度、そしてその霊までも、余すところなく見るでしょう。そして、人が言葉だけで整えたつもりでも、それに相当する概念も明確なイメージも人の中にないことを、神は見抜かれるわけです。そういうことを考えると、やはり、人は、神の前で背伸びしないように注意したほうがよいのです。人の言葉しか使えない人間は、人の言葉で理解に向けて広がる可能性のあることを努めて語るべきでしょう。
コメントに、生きている人間の霊的復活という、少し乱暴なことを書きました。これは、比喩的であるかもしれません。精神的に、死は、不活と絶望、生は、活性と希望、という対応で、人間は、両者の間を行ったり来たりするのでしょう。絶望から希望、これは、絶対孤独からの解放でもありますが、これを、人間の復活と呼んでみました。心と霊という言葉が、受け取る側に与える意味合いの違いについて、行き届かなかったことを反省します。
(2017年12月02日、同日一部修正)
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