マイナス思考の多い私ですが、無理にプラスにしようとは思いません・・。
 
 
  夕日と
 
 
夕日を見ることを好んだ
 
それは
夕日と夜に包まれている時間
 
沈む陽を見ながら
背後から迫る夜を感じる時間
 
既に青年の頃からは
病弱と欠陥だらけの身には
ときに
見入っているのは
焼き尽くされるべき時間と記憶
 
かけがえのなさを
どこにも持っていけない時間
 
沈んだはずの時間が
移ろいの広さに遊んでいる
 
終わったと分かっていて
まだ見ている時間
 
失った時間と戯れる遊びの
時間が青から黒へ褪せてゆく
 
見飽きて背を向ける頃には
闇の中に
帰る道を仮想して
 
帰り着く場所を今も知らない
 
 
※ 
 
最後の最後に帰り着く場所を私は今も知らないのですが、知っている人はいないと思います。キリスト者が、言葉にすれば、天国へ行く、と言っても、天国を知らないのだし、永遠の御国、と言っても、永遠の時間など把握できないですから。
 
光とか、風とか、空とか、太陽とか、水平線とか、時間とか、無限や永遠につながりそうな言葉を思い浮かべるたびに、あまりにも果てしない世界に生まれてきていることを改めて思い、極小の自分がどこへ行こうとしているのか、消えそうなくらい心細くて、分からなくなる・・。
 
しかし、死後のことよりも、生きている間、天国を見ることは全くないのか・・と考えてみると、垣間見ている、という気もします。夢のような天国ではなく、もっと身近な、何かに感動したとき、癒されたとき、心が晴れたような気持ちになったとき、解放されたと感じたとき、全くなかったわけではなくて、そういうときに垣間見ている、という気持ちがあるからこそ、今も、主とともに歩みたいと思っているのでしょう。
 
 
(2017年12月04日)
 
 
 
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