キリスト像
 
 
  基督像
 
誰も助けてはくれない
誰にもおろしてもらえない
痩せた項(うなじ)は地にうなだれ
蒼白の瞳はかすかに見開かれながら
ずり下がる手足の痛みに耐えていなければならない
 
どれほど多くの乾いた唇が
彼の名前を掠めていったことだろう
どれほど多くの黄色い視線が
彼を横目に見たことだろう
そして頁をめくるような夥しい粗い舌が
彼を指して唱えたのだ
「ユダヤの王」あるいは
「わが救い主」と
 
彼はなぜ耐えているのか
彼は何を待っているのか
それでも扉は開かれている
どこに向かって あるいは誰に
 
 *
 
息を切らして
開かれた扉から
駆け込んできたのは一人の少年である
熱く紅潮した顔が彼を見上げる
少年の汗まみれの手に
握られているのは一冊の聖書だ
 
「主よ 私です
 私は来ました」
 
信仰告白は
上気した額の上で
まるで天国を見たかのように
見知らぬ夢に向かって語られていた
少年はまだ信じている
本当は基督よりも自分の元気を
少年はまだ知らない
彼の聖書(テキスト)が答えない
多くの悲劇について
 
 *
 
礼拝堂から街へ
宿命のように降りている階段を
少年も今しがた降りていった
 
人のいない礼拝堂の中で
去っていった少年の面影を
まだ見おろしている
基督像
 
たとえその動かぬ指先に
ふるえる朝の歌がよみがえったとしても
目に見える何が
それを少年に伝えるだろう
 
何も変わってはいない
誰も見送りはしない
くずれ去っていくもの
新たに生まれる何か そして
彼をとどめる絆(きずな)のために
基督の歌が歌われるのは
このときであるから
 
 

階段のある教会は、最初に聖書のことで訪ねたカトリックの教会のイメージです。
 
洗礼を受けたのは17歳、もはや45年前、はっきりとは思い出せないほどだが、ひょっとしてクリスマスのときだったか、佐世保の小さな教会、滴礼だった。受験を控えた大事なとき、失恋で心の乱れていた頃でした。その後、失恋後遺症、読書障害、コミュニケーション障害、対人緊張、と思われる挫折、鬱は、長く長く続いて、・・もう働くこともできませんし、クリスマスが来るたびに、自分の人生が何のためにあったのか、さっぱり分かりませんが、キリスト者になっていなければ、最悪の場合もあっただろうとは思うのです。私が生きてよかったか、死ねばよかったか、それは、なお、神様だけがご存じなのでしょう。私は分かりません。
 
メリークリスマス
 
 
(2017年12月24日)
 
夥しい(おびただしい)
 
 
 
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