絆(きずな)
 
 
  神とキリスト
 
神様は不公平です
神様は不平等です
神様の計画は理解できません
神様は不平等に才能と運を与え
神様は不公平に貧富を作ります
神様の御心はわかりません
理解を超えた全知全能に
耐えられないから
全知全能の父なる神
お近づきに
なりたくありません
 
もし神様が来られたなら
恐れおののき
あわてふためき
逃げられないと知りながら
逃げ惑うでしょう
 
けれどキリストが来られたなら
列の一番後ろでもいい
岩陰からでも木の陰からでも
覗(のぞ)くだけでもいい
ついていきたいと思うのです
 
主イエス・キリストは言われました
「今悲しむ者は幸いである」
そして悲しい生と死を歩まれました
 
全知全能には耐えられないから
我が主はイエス・キリストです
神様への祈りも
神様との和解も
神の愛も
キリストにおいてしかなく
だから
キリスト以外の
神を知らない
 
 
自分の成り行きを思い起こしてみると、今でさえ、神を愛するより、神を恐れます。しかし同時に、キリスト・イエスを思えば、・・という感じで、とどまっているのです。
 
 
   絆(きずな)
 
どんなに固く抱きしめても
心は移ろい離れてゆく
たとえどんなに心通わせても
この世に別れの尽きることはない
 
痛みと傷と
涙と悔いと
もう別れはたくさんだと
吐き捨てるように
首を振る
誰に向かって
 
あの田舎の町の
片隅の
小さい木造の
貧しい礼拝堂の隅で
さらに小さくうつむいて
ふるえるように顔さえ見せず
ひたむきに手を組んでいた
あなたよ
他によるべのない
あなたよ
その信仰を少し分けてもらえまいか
私と愛する人々のために祈ってもらえないだろうか
 
心貧しきは幸いなり
心貧しきは宝なり
 
 
そのように見える人がいたという体験です。確かめたわけでも話をしたわけでもありません。
 
失恋して、初恋のあの人が去っていったときに、また、心くじけて、私がいるべき場所を去ってきたところで、呆然と突っ立っていた。呆然と突っ立っている・・気がする。今も。
 
そういうことを言ってはいけないよ、などと言って上品に装うご立派な宗教になるくらいなら、見苦しい裸のままをさらす信仰を見ていただこう。
 
 
  聖なるあした
 
明くる日は
あした
また来る朝も
あした
未知なる希望
消え入るごとく
ささやかに
 
聖なるもの
聖なるものよ
その道に至るまでに
怒りのパン種を懐に隠した
旅人が幾度つまずいたのですか
鶏が鳴く前に
何度
泣かなければならないのでしょうか
 
 
「鶏が鳴く前に(何度裏切って)」という意味です。ユダとまではいかなくても、少なくともペテロの裏切りは自分に当てはめるべきだろう。私には覚えがある、いや、何度も覚えがある。あんまり多くて、日常になってしまって、分からないことさえ、分からなくなっている。飾ってはいけない。人が神を飾ることは出来ない。
 
 
(2017年12月25日、同日一部修正)
 

最近アップしている詩のようなものは、多く20年位前に書いたものです。
 
 
 
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