伝道の書6章
 
 
伝道の書は、私の好きな書のひとつです。かなり過激なことを書いているようです。誤解しているもしれないが私の感想と解釈を書いてみます。
 
 
 (伝道の書、口語訳)
6:1
わたしは日の下に一つの悪のあるのを見た。これは人々の上に重い。
6:2
すなわち神は富と、財産と、誉とを人に与えて、その心に慕うものを、一つも欠けることのないようにされる。しかし神は、その人にこれを持つことを許されないで、他人がこれを持つようになる。これは空である。悪しき病である。
6:3
たとい人は百人の子をもうけ、また命長く、そのよわいの日が多くても、その心が幸福に満足せず、また葬られることがなければ、わたしは言う、流産の子はその人にまさると。
6:4
これはむなしく来て、暗やみの中に去って行き、その名は暗やみにおおわれる。
6:5
またこれは日を見ず、物を知らない。けれどもこれは彼よりも安らかである。
6:6
たとい彼は千年に倍するほど生きても幸福を見ない。みな一つ所に行くのではないか。
 ・・・
6:11
言葉が多ければむなしい事も多い。人になんの益があるか。
6:12
人はその短く、むなしい命の日を影のように送るのに、何が人のために善であるかを知ることができよう。だれがその身の後に、日の下に何があるであろうかを人に告げることができるか。
 (伝道6:1-6,11-12、旧約聖書)
 
 
1節:これは、憎むべき悪でしょうか、それよりも、あとのほうを見れば、避けようのない人の定めのような不幸あるいは不全のあり方を語っているような気もするのですが。
 
そう取らないと、神が悪を為している文脈になり、伝道者は、それを憎んでいることになります。しかしそうすると、この書の名前から言って、伝道ではなくなり、神への憎まれ口を言っていることになってしまいます。書かれた目的を考えれば、伝道者は、口において少し悪びれて、つまり偽悪者として、書いているように思います。私、偽悪者、好きなんです。
 
2節:神は人を富ませるが、いずれそれは他人が持つようになる。富は移ろう、ゆえに、富むことは、空しい。
 
3節:多くの子に恵まれ、長い寿命を得ても、その者が、幸福でないと感じて満足がいかないならば、流産したほうがましだ。「葬られることがなければ」は、よく分かりません。ずっと生きることはないのだし、葬られることのない悲惨な死に方?・・分かりません。
 
4-5節:流産の子のことでしょうか。暗闇に行き、太陽または月日?を見ず、物を知らないまま、しかし、長生きして満足しない者より安らかだ。
 
6節:まとめるように、どんなに長生きしても死に定められている。この地上の生は過ぎ去るもので、とどまれる者はいない。
 
11節:人の言葉を弄することの空しさでしょうか。しかし、伝道者は、その空しさと苦しさをもって、書いているのです。
 
12節:人が判断する善の、神の判断に比べるところの、あまりの無知、・・死後を語れない、地上の果てを語れない、いずれも、人の空しさです。神と比べたところの、著者という人間の空しさなのです。栄華を極めた男でさえ、こう言っていることを考えるべきだと思います。
 
独特の無常観です。いくら富と栄えに恵まれても、地上の生は過ぎ去ってゆく・・と言っているのは、まさに、富と栄えに恵まれたソロモン王だろう言われている伝道者なのです。
 
栄えた王の自虐的な言葉は、地上の栄えの空しさを語ります。
 
伝道者は、何を言いたいのでしょう。
 
富と栄えが永遠である御方は誰でしょう。暗闇でなく光なのは誰でしょう。日を造り物を造り、人までも造ったのは誰でしょう。
 
神以外にはおられません。
 
だとすれば、これは、とても逆説的だが、自分の低さを痛いほど自覚した者の、地上を生きることの空しさと悲しさの実感からの、神への讃美と受け取りました。
 
果てしない欲望が叶わないことを書いていますが、その不満だけを言っているのではありません。もしそうなら、不満だけを述べているのなら、伝道でもないし、書かないでしょうし、聖書にならないでしょう。
 
こんなに人として恵まれても空しい、永遠が欲しい、という欲求不満の意味でしょうか。私は、そうは受け取らず、王でさえ伝道者でさえ空しさを覚えるのだから、誰の地上の生き方も、それだけで充実することはなく、ただ儚げに見える命は、神のもとでのみ、生かされてゆくだろう、というような意味に受け取って、人に対しては共感を求めているような気がします。
 
次は、伝道の書を読んだときに特に印象的だった聖句です。
 
 (伝道の書、口語訳)
7:14
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 (伝道7:14、旧約聖書)
 
人は、人として、楽しむことがあり、考えることがある。それを超えることは、神の仕事である。人が幸福が何かを判断しようとしても、儚い地上においては、取り分を楽しむに過ぎない。人が、神の基準の幸福でなければならないと、それを求めても、完全な善なる幸福の基準を、地上で決めつけたり、さらに他者と比較したりしてはいけない。
 
神の国や神の善に比べれば、地上は、見えるところ、皆、空しいのである。だから、思い煩わずに、分からないところを神に任せれば、楽しむこともできる。逆境の時には、試みられているかもしれないから、そのとき考えればいい、という意味でしょうか。
 
つまり、著者は、伝道のために書いているのであって、不満だけを書いて空しいとボヤいているのではないのです。
 
ダビデ王の息子として生まれたソロモン王であったなら、どこかの国のようにわがままな暴君になる可能性もあったでしょうが、この伝道者はそういう人ではなかったように思えます。
 
ただこの伝道者は、誰もが頷いてくれるような、美しい言葉を並べて、最初から、大事なのは富ではありません・・云々、という書き方を好まなかったようです。
 
今まで書いてきたことですが、私は、讃美の言葉というものを、常套句のようで、あまり好きではありません。しかし、この伝道の書の、本音を通した逆説な書き方を好みます。著者は、文学的なのか、偽悪者なのか、分からないけど、考えるべき糧を大いに与えてくれます。
 
 
(2018年01月17日、同日一部修正)
 
儚い(はかない)
 
 
 
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