泣く
 
 
人の悲しみに際して、
キリストは、泣く必要はない、とか、
心配しなくていい、思い煩わなくていい、
ということは言うかもしれない。
 
しかし、悲しみに寄り添うキリストは、
信仰があるなら泣くな、とは言わないだろう。
 
 
泣くことは、一種の感情の発散であり捌け口であり、
涙によって流すものもあるのだから、
 
泣いている人を、心おきなく泣かせることは、
より重い鬱にならないために必要だろう。
 
泣けることは救いなのだ。
 
重い鬱は泣かない・・。
 
泣いているなら、泣けるあいだ、
治癒に向かおうとしているのかもしれないし、
すでに治癒が進行している途中かもしれない。
 
泣いている人を見つけたら、
非常時とばかり驚いて理由を聞くのではなく、
叱咤激励や、泣くな、の一喝は以ての外で、
泣くのを止めさせるのではなく、
 
包み込むような共感を持つようにしたい。
 
泣けることは救いなのだ。
 
理由はそのあとでいい。
何故なら理由を話したい気持ちは既にあるが、
話す前に激情を涙で流していることもあるからだ。
 
命令は禁忌。
 
あくまで支えたい気持ちを、
できれば具体的に表す。
できないときは無理をせず専門家に任せる。
 
キリストは人間の気持ちが分かるから
悲しみに寄り添ってくださることが癒しになる。
キリストは、冷たく乾燥した実のない言葉の害悪を
よくよくご存じなのだろう。
 
悲しむ人に出会って、
同じ人間として
受け入れて共感する以外に何が出来よう。
 
そういうところに入り口があることは、
信仰も人道も同じなのだ。
 
 
信仰の万能を思い込んで
人道を無視したり、二の次にした説教者が、
人道に注げないような超常の話を説教すれば、
人道から嫌われるのは至極当然のことで、
 
にもかかわらず
嫌われたほうが嫌ったほうを神の敵と思い込み、
嫌ったほうは嫌った対象を
キリスト教はこんなことを言うんですよ
と誤解したのでは、
迷惑なだけの笑えない伝道?になるだろう。
 
人間が神の恵みを伝える説教は
上手であるはずはないのであって、
主の執り成しを望むなら、
 
間違っても悲しむ人を見たとき、
いい機会とか思って、
下手な教理の言葉で説教など始めたりせぬために
 
必要なのは人間の心を学ぶことだろう。
 
 
人に対して、打ち明け話をするのは、相手が驚いたり不審に思ったり、また依存的だと思われはせぬかなど、恥ずかしくて気が引けることですが、その気持ちを察するならば、聞き手が包み込むような心になることも不可能ではないかもしれません。
 
神に対しては、秘密の祈りでもあり、どんな姿を見せても、総てをご存知の神は、正直な祈りならば、恥ずかしささえも一緒に受け入れてくださるでしょう。
 
聞き手は、悩める人の話を聞く前後に祈るべきでしょう。神は、悩める人であっても、聞き手であっても、謙って砕けた魂の本音の叫びを軽しめられません。
 
飾らない本音の祈りのお手本は、またしても、キリストであります。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
26:39
そして少し進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。
 (マタイ26:39、新約聖書)
 
キリストは、人間と同じ痛みを感じる御方であります。
 
人間にとって、恥を知ることは福音です。恥を知らなくなることが、一番恥ずかしいことです。
 
主の前に、恥ずかしい自分をさらすことによって、恥をさらしてよい相手に対して、恥をさらしつくしたときに、安堵の温もりとして、人間一人、涙に濡れることもあるでしょう。その涙は、悲しむ人に与えられる福音なのです。
 
 
(2018年01月18日)
 
捌け口(はけぐち、はけくち)
鬱(うつ)
治癒(ちゆ)
狼狽(ろうばい)
叱咤激励(しったげきれい)
一喝(いっかつ)
以ての外(もってのほか)
安堵(あんど)
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
 
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