かなり乱暴ですが・・
十字架
キリストの十字架の贖いによって罪が赦されました
・・これだけを信仰の説教としてしまうと、
何だか、信じますといったら贖罪カードもらえます
というお店のサービスみたいだ。
何が言いたいかというと、
これでは、キリストに出会った人々の
悲しみも赦された喜びも感じることが出来ないということ。
贖罪カードをあげるから信じなさい、
放っておくと大変なことになりますよ、
と言われているようだ。
人間の罪についての考察と経験上の実感より前に
罪に赦しを与えるから信じよ、というのは無理だろう。
紙に書かれた条文のような文章を
聞かせられて心が通じることはないだろう。
説教者の思い上がりとして、
自分が不十分でも
聖書のことを話せば主が執り成してくださる、
という思い込みがあります。これは、
だからこのままでいいと思い込む口実にもなります。
下手な説教を、主が執り成すことはあるだろう、
しかし、そこに、
説教者の怠慢や甘えや安易さがあったなら、どうだろう。
実際、執り成しがあってよかった場合だけではないはずだ。
そういうとき、聞いた側のせいにしてはいないだろうか。
主の恵みがないとね・・とか・・?
その前に、自分の至らなさを考えるべきだろう。
このことは、伝道というより、説教者の信仰の弁えである。
キリストは人間の肉体をもってこの世に生まれ、
殺される肉体の苦しみを経て
絶対孤独の悲しみを経て
私たちに問いかけてくるというのに、
どこかで見たか聞いたかの讃美の言葉だが、
イエス様、死んでくださってありがとう!
主イエスの苦しみも悲しみも気にせずに
贖いの教理のみから単純に理屈で短絡して言っている。
・・キリストに向かって言うつもりか?
それで目一杯讃美すればよいと思って
考えもなしに感謝の言葉を繰り返すのなら、
人間離れとはこのことだ。
讃美だけの救いの教条信仰で、
人間味も人間性も失って
自分に言葉の包帯をぐるぐる巻いても、
予防にも防衛にもならないだろう。
こういうことを言っている人は、
生きている人間には
到底わからない苦しみと悲しみを味わった御方を、
嬉しそうに笑ってみている立場になりはしないか。
救いのサービスをありがたがっているだけで信仰だなんて・・。
一度、十字架についてみたら?と言いたくなる。
言葉を控えるはずなのだ、
十字架についたことのない人間は。
キリストが悲しみを込めて人間に共感しているのに、
人がキリストの悲哀に共感しないなんて。
十字架の贖いという言葉にしがみついて、
涙も、息も、悲しみも、苦しみも、感じていないなら、
キリストに、殉教したキリスト者たちに、
天国で会ったとき、どう言うつもりだ。
死に向かう悲劇も苦しみも悲しみも省みずに、
殉教して、おめでとう!・・とでも言うつもりか。
ここで、
殉教して天国に行けたのだから
おめでとう!は言えてると言うなら、
救いの言葉を受けて慢心しただけで、
その時点で
深い悲しみへの共感を失っている。
頭で感謝しているだけで、
本当の人間らしい心を持たず、
悲しみや苦しみに共感する心を失ってはいけない。
そこは一番大事なところなのだ。
本来の心のこもった感謝ではなく、
結果だけ受け取った気分でありがたがるような
信仰?の愚かさを早く脱してほしい。
いかなる学者や賢者の言葉も
キリストほどの悲しみの共感と愛と憐れみを表し得ない。
それを、キリストが死んで、罪が贖われ、などと
救いの積み木のようなゲームのような貧弱な理路にしてはいけない。
積み木崩しは、あっけないのだから。
それでもキリストの苦しみが分かるというなら、
いつもいつも繰り返し讃美するのだろうか。
今、迫害されて、
命の危機が迫っているわけでもないのに、
神への讃美を繰り返すのは、
立派な信徒でなければ・・という強迫観念か、
立派な信徒ぶりを見せようとする自己顕示欲か、
この世ならぬ陶酔気分に酔いしれているかだろう。
感謝するのは、いつもではなく、本当に感謝したいとき。
そして、讃美するのは、本当に讃美したいとき、
あるいは、自分の低さが身に染みて、どうしようもないとき、
または、危機を脱したときと、そして、
できるかどうか分からないが、死ぬときだろうと思っている。
キリストは
すべてに見捨てられたかのような
絶対孤独に死ぬという試練を受けて、
使命を果たした。
キリストこそが、キリスト者の守るべき従順の理想と言えるだろう。
最も偉大な殉教者は、またしても、キリストご自身である。
そういうキリストを好きになり寄る辺としている者をキリスト信仰者という。
(2018年01月20日、リンク追加、同日一部修正)
贖う(あがなう)
贖罪(しょくざい)
執り成し(とりなし)
弁え(わきまえ)
十字架
キリストの十字架の贖いによって罪が赦されました
・・これだけを信仰の説教としてしまうと、
何だか、信じますといったら贖罪カードもらえます
というお店のサービスみたいだ。
何が言いたいかというと、
これでは、キリストに出会った人々の
悲しみも赦された喜びも感じることが出来ないということ。
贖罪カードをあげるから信じなさい、
放っておくと大変なことになりますよ、
と言われているようだ。
人間の罪についての考察と経験上の実感より前に
罪に赦しを与えるから信じよ、というのは無理だろう。
紙に書かれた条文のような文章を
聞かせられて心が通じることはないだろう。
説教者の思い上がりとして、
自分が不十分でも
聖書のことを話せば主が執り成してくださる、
という思い込みがあります。これは、
だからこのままでいいと思い込む口実にもなります。
下手な説教を、主が執り成すことはあるだろう、
しかし、そこに、
説教者の怠慢や甘えや安易さがあったなら、どうだろう。
実際、執り成しがあってよかった場合だけではないはずだ。
そういうとき、聞いた側のせいにしてはいないだろうか。
主の恵みがないとね・・とか・・?
その前に、自分の至らなさを考えるべきだろう。
このことは、伝道というより、説教者の信仰の弁えである。
キリストは人間の肉体をもってこの世に生まれ、
殺される肉体の苦しみを経て
絶対孤独の悲しみを経て
私たちに問いかけてくるというのに、
どこかで見たか聞いたかの讃美の言葉だが、
イエス様、死んでくださってありがとう!
主イエスの苦しみも悲しみも気にせずに
贖いの教理のみから単純に理屈で短絡して言っている。
・・キリストに向かって言うつもりか?
それで目一杯讃美すればよいと思って
考えもなしに感謝の言葉を繰り返すのなら、
人間離れとはこのことだ。
讃美だけの救いの教条信仰で、
人間味も人間性も失って
自分に言葉の包帯をぐるぐる巻いても、
予防にも防衛にもならないだろう。
こういうことを言っている人は、
生きている人間には
到底わからない苦しみと悲しみを味わった御方を、
嬉しそうに笑ってみている立場になりはしないか。
救いのサービスをありがたがっているだけで信仰だなんて・・。
一度、十字架についてみたら?と言いたくなる。
言葉を控えるはずなのだ、
十字架についたことのない人間は。
キリストが悲しみを込めて人間に共感しているのに、
人がキリストの悲哀に共感しないなんて。
十字架の贖いという言葉にしがみついて、
涙も、息も、悲しみも、苦しみも、感じていないなら、
キリストに、殉教したキリスト者たちに、
天国で会ったとき、どう言うつもりだ。
死に向かう悲劇も苦しみも悲しみも省みずに、
殉教して、おめでとう!・・とでも言うつもりか。
ここで、
殉教して天国に行けたのだから
おめでとう!は言えてると言うなら、
救いの言葉を受けて慢心しただけで、
その時点で
深い悲しみへの共感を失っている。
頭で感謝しているだけで、
本当の人間らしい心を持たず、
悲しみや苦しみに共感する心を失ってはいけない。
そこは一番大事なところなのだ。
本来の心のこもった感謝ではなく、
結果だけ受け取った気分でありがたがるような
信仰?の愚かさを早く脱してほしい。
いかなる学者や賢者の言葉も
キリストほどの悲しみの共感と愛と憐れみを表し得ない。
それを、キリストが死んで、罪が贖われ、などと
救いの積み木のようなゲームのような貧弱な理路にしてはいけない。
積み木崩しは、あっけないのだから。
それでもキリストの苦しみが分かるというなら、
いつもいつも繰り返し讃美するのだろうか。
今、迫害されて、
命の危機が迫っているわけでもないのに、
神への讃美を繰り返すのは、
立派な信徒でなければ・・という強迫観念か、
立派な信徒ぶりを見せようとする自己顕示欲か、
この世ならぬ陶酔気分に酔いしれているかだろう。
感謝するのは、いつもではなく、本当に感謝したいとき。
そして、讃美するのは、本当に讃美したいとき、
あるいは、自分の低さが身に染みて、どうしようもないとき、
または、危機を脱したときと、そして、
できるかどうか分からないが、死ぬときだろうと思っている。
キリストは
すべてに見捨てられたかのような
絶対孤独に死ぬという試練を受けて、
使命を果たした。
キリストこそが、キリスト者の守るべき従順の理想と言えるだろう。
最も偉大な殉教者は、またしても、キリストご自身である。
そういうキリストを好きになり寄る辺としている者をキリスト信仰者という。
(2018年01月20日、リンク追加、同日一部修正)
贖う(あがなう)
贖罪(しょくざい)
執り成し(とりなし)
弁え(わきまえ)
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