正しさと反省
 
 
人間は、たいてい、正しいことを目指し、
今自分は正しいと思っているから何かを表すのです。
 
正しくなければ反省しますが
その時、反省する自分は正しいと思っているのです。
 
つまり、人間は、いつも
今自分は正しいと思って言動しています。
 
それが身勝手な妄想にならないのは、
他でもない、反省機能があるからです。
反省によって正しさを更新するからです。
 
反省しなくなった人は、
妄想や空想が溜まりに溜まって、
人間とは思えないような様相を呈してくるでしょう。
 
信仰においても
反省は最も大事なことですが、
 
信仰においては、
それは自分の内部で終わるのではなく、
神に対する悔い改めの祈り
という不可欠な務めになります。
 
本当の正しさは、神のもの
という信仰においては、
 
自らの正しさを
惜しむことなく捨て去ることもあり、
自分の正しさに怖気づくことなく、
そこに、しがみつくこともありません。
 
本当の正しさを
神に任せているのだから、
神は不変の真理であり、
人は可変の提言者となるのです。
 
そうして、正しいつもりで、
間違えて恥をかき、
あるいは、転んで、ひっくり返って、
頭をぶつけたような惨めな気持ちになり
 
なんて駄目なんだろうと思いながら
祈ることになります。
 
悔いと罪悪感に沈むことがあっても
その気持ちを捧げる時と所があるのが信仰者です。
 
転んで立ち直るときに
自力が無理なときに
自分の気持ちが整理できないときに
捧げる相手がいるのが信仰です。
 
誰も分かっていないかもしれないときに
自分という人間を分かったうえで
その告白を待っておられるのがキリストです。
 
神様にそんなこと申し上げられない
という考えをしなくていいのがキリスト信仰です。
 
そのために人間として、
祈りは目いっぱい正直でなければならず、
ただ正直であることだけが条件となるのが、
神によって信仰の義を得る信仰なのです。
 
揺るがない信仰とは、不変の信仰の意味ではない。
 
信仰が不変でなければならない、などと言うのは、人間が分かっていない証拠です。
あるいは、誰かに植え付けられた強迫観念かもしれない。
 
そういう人は
自分の信仰がずっと正しいと思っているのでしょうか。
この汚れた地上に罪深い人間として生まれて生きて、
自分の信仰が正しいとか、どこにそんな証拠があるのでしょう、
どうして罪人が、そんな気持ちになれるのでしょう。
 
揺るがない信仰とは、信仰の中身が揺るがないのではなく、甚だ不十分ながら、
これからも成長可能な信仰者として生きるという決意が揺るがないことであります。
 
 
(2018年01月21日、同日一部修正)
 
溜まる(たまる)
甚だ(はなはだ)
 
 
 
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