関係
 
 
私たちには、教えられた神の領域の言葉そして名前があります。
一方、人間は関係の中で生きています。人間同士の関係があります。そして、自分と神、私たちと神の関係の中で生きるのが信仰です。
 
その私たちが、神の領域の御方を、神、キリスト、聖霊、という名前ばかり繰り返せば、神の名をみだりに唱えることになるでしょう。十戒はそれを戒めています。
 
何が言いたいかと言えば、神の領域の御方を、神と人の関係で語らなければ、意味がないだろうということです。教理の言葉を受けるだけでは、言葉と名前をなぞっているだけになるでしょう。
 
例えば、聖書には、キリストは、地上で多くの人に会っていることが書かれています。その関係を考えることが、生きた信仰を語ることにつながるでしょう。
 
神の領域の言葉として、奇跡があげられますが、前にも言ったように、物や肉体に起こる奇跡をいくら大事だと言っても、実際、そういう奇跡はめったに起こっていない、という事実によって、それこそ、口だけの讃美と伝道になってしまうのです。
 
ですから、物や肉体の奇跡については、神にお任せするしかないことです。私は、いつでも起こりうる奇跡、つまり、魂の奇跡のほうを重視しています。
 
魂の奇跡は、聖書においても、キリストとの温かい交流として、出会った人々に起こっており、また、私たちにも、日常において、苦難において、起こりうることですし、起こらないならば、信じた意味がない、というほどの大事なことなのです。
 
この記事のテーマは関係ですが、物や肉体の奇跡は神のみが行えることであり、私たちは、神の奇跡については、起こったとしても、受けるだけの関係です。
 
魂の奇跡は、キリストと人との関係が聖書に書かれてあり、今は、キリストと私たち一人ひとりの祈りを通した交流の関係があります。私たちから見れば、いつでも、祈る相手がおられることが、生きる上で大きな福音でしょう。
 
しみじみと祈り告白すること、そこにおいて、単方向のように思われるかもしれませんが、何度も書いてきたことだけど、祈るときに、心が潤いと温もりに満たされることは、多くの信仰者が経験していると思います。
 
私たちは、しみじみと語ることで、すでに、恵みを受けている双方向なのです。この恵みは、とても大切な宝物なのです。そして同時に、自らを省みる時でもあります。
 
聖書で、神と人との交流と関係が書かれているのは、やはり、福音書が一番でしょう。キリストが見込んだ人々の、見過ごしそうでありながら、生き生きとした命が描かれています。
 
感動もなく当たり前のこととして、こうでなければならないと教理を振り回すような人には、なりたくないのです。私たちは、今も、この世の礫を受けながら、生きてゆくのですから。
 
自分ではどうしようもないことを、生き方を、キリストの思いと、キリストに訴えた二千年前の人々の願いが込められた福音書を、見直して欲しいと思います。その情熱と涙を、ぜひ味わってほしいと思います。疑問があれば、私に聞いてくださいというより、私も分からないことがいっぱいあるから、一緒に考えましょう。
 
 
(2018年01月22日、同日一部修正)
 
礫(つぶて)
 
 
 
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