父が言ったこと
 
 
私の父は、2002年に死にました。戦争の時代を経験している、昔、徴兵された日本の二等兵でした。生前、父が言ったことを書いておきます。父と話し合いが出来ていたら、私が父に言っただろうと思うことを、要するに理屈に自信を持っていた父への文句なのですが、こういうことは整理して克服しておかないといけないので、身勝手を承知の上で、すでに亡くなって反論できない父のことを書くのであります。
 
父は、キリスト者ではありません。父は、私が洗礼を受けたのち、何を心配したのか、私が舞い上がって、有頂天のファンタジーか妄想か嘘を思い込んでるとでも思ったのか、私に言ったことがあります。
 
「マリアは姦通したのだ」
 
マリアの処女懐妊が信じられないことは分かります。私も信じられません。ただ処女懐妊と姦通の間に、普通に愛し合って妊娠したという説があってもよさそうなものだが・・と私は思いました。ただ父は、それを言って、そのあとすぐ、私の返事を待つでもなく、どこかへささっと行ってしまいました。一言、言いたかっただけ・・?、嫌味にしかならないのに?
 
また別の日には、
「お前に、視野の狭~い人間には、なってほしくない」
 
自分の視野をさておいて、父は、これも言った後、話し合う気はなく、すうっと離れて行きました。何を返そうかと思いながら、何を返す時間もなく、過ぎたひととき・・?
 
父は、見てきたのでしょう。実際よりも、話に聞いたか、テレビや映画で、クリスチャンや牧師か神父様の、うっとり上気して神のことばかり語る世間知らずの姿。それは、私の場合、実際に見たり、文章の印象だったりで、経験しているところです。
 
父にとって、一つの宗教を信じることは、その宗教観によって、思想を狭小化することだ、という先入観があったのでしょう。それは偏見だと今の私は思うけれども、何というか、心配だから、イヤミになることも考えず、父は言わずにはおれなかったのでしょう。
 
もしキリスト教が、特定の思想や観念を、不明を明として信じよと、強要するだけの宗教であったなら、二千年を経て、世界的に、宗教界のみならず、哲学その他にも、よかれあしかれ、影響を与えながら、キリスト教が続いてきただろうか、とも思います。
 
つまり、キリストの言葉は、キリスト教という一宗教の教祖の発言では済まされないほどの、重みをもっていた、ということでしょう。だから今も、私も他の信仰者も、その重みを理解しようと努めているのです。
 
洗礼を受けたばかりの若者が、キリスト者になって、神の世界に、一時的に、のぼせ上がるということはあります。前に「基督の歌」という詩のようなものを書きました。しかし、どこか閉鎖的な環境に籠るとかいうことでない限り、その上気は、多くの場合、現実に叩かれて、卒業することになります。
 
ここで、言うべきこととしては、一般社会では、私の父が言ったような偏見とイメージは根強いということでしょう。父は、一般社会の人間としての偏見から物を言ったのでしょう。ひとこと言って当てつけて去る、ってのは・・今も疑問ですが・・。
 
その偏見に対して、そうならないために考えるべきことは何でしょうか。私の考えとしては、神を信じることについて、信仰として明らかになるのは、神はこうだ、と言うことではなく、それは分からないままで、むしろ、神に比べて人間はこうだ、と言うことだと思っています。つまり、そういう意味で、信仰は、人間を語ることであり、また、信仰は、人間のためだけにあるのです。そこにおいてのみ、信仰は、現実的な真実の意味を持ってくるということです。
 
 

 
うちは代々、熱心とはとても言えない、慣習上の、日蓮宗です。年を取ってから、亡父も、今、母も、仏壇に向かって、じっと座って何やら話したり瞑想したりする様子をしばしば見ました。
 
父と母は、中国のチンタオ(青島)というところで巡り合い、別々ですが戦後、引き上げ者として船で日本に戻ってきて、結婚して、私が生まれたわけです。私の人生に比べれば、父と母は激動の時代を生きたのだと今でも思っています。
 
父は、自分の人生観と道理に自信を持っていたようです。つまり、理屈が好きなようで説教好きでした。よく、誰かに説教したことを「こんこんと言って聞かせた」と言うのです。
 
説教好きな人というのは、父に限らず、結構いると思いますが、申し上げたい。私に言わせれば、そういう場合、相手は、懇々と教えられて聞きました、ではなく、一刻も早く、地獄のような今の時間が過ぎ去るのを待っていただけかもしれません。後年、父が、母と、熟年離婚になりそうなくらい夫婦喧嘩になったときに「それはお前の事実誤認さ」と法律用語を持ち出したときに、私は、そう思いました。余談です。
 
 
妄想陶酔フィクサー、思い込み道祖神、世間体大明神、体裁大権現、蛆(うじ)神、恨みの虫、自己中虫、等々、私たちは、この世の様々の化け物にもなりうる生き物で、多くの人が、私も、その一部を持っています。それを、まっとうな人間に育てて生かして用いてくださるのはキリストの御心、と信じた人をキリスト信仰者と言います。
 
神のことばかりを話し、神由来の言葉ばかり語る、というような伝道と説教のあり方は、現実逃避になることはあっても、決して、敬虔でも熱心でもありません。弱さを自覚しているなら、弱い人間を語るべきなのであり、主によって顧みられた自分や様々な人間の経緯を、静かな情熱で、語るべきなのです。
 
キリストとの出会いの経緯こそは、今の人間にとっても、福音であったはずですから、新約聖書とまではいかないが、それを語ることは、人が語る福音書的な話として、信仰の大切な糧となるはずで、当然、そこに、聖書の中の登場人物の話も出てくるでしょう。語るべきは、神についてではなく、理解可能な、キリストの人間性と、出会った人々の人生なのです。
 
 
(2018年01月23日、同日一部修正)
 
籠る(こもる)
瞑想(めいそう)
経緯(いきさつ、けいい)
 
こんこん(懇々)
( トタル ) [文] 形動タリ 
真心のこもっているさま。丁寧に詳しく説くさま。 「 -と言って聞かせる」 「道理を-と説きさとす」
(weblio辞書
https://www.weblio.jp/content/%E6%87%87%E3%80%85 より)
 
 
 
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