教え
 
 
マタイによる福音書からキリストの教えを引用してみます。キリストの言葉は、特に罪については厳しく、無理難題と思われるようなことがあるのは何故でしょう。解釈を試みてみます。重複するところもあります。繰り返しにもなりますが、
 
引用)
19:16
すると、ひとりの人がイエスに近寄ってきて言った、「先生、永遠の生命を得るためには、どんなよいことをしたらいいでしょうか」。
19:17
イエスは言われた、「なぜよい事についてわたしに尋ねるのか。よいかたはただひとりだけである。もし命に入りたいと思うなら、いましめを守りなさい」。
19:18
彼は言った、「どのいましめですか」。イエスは言われた、「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証を立てるな。
19:19
父と母とを敬え』。また『自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ』」。
19:20
この青年はイエスに言った、「それはみな守ってきました。ほかに何が足りないのでしょう」。
19:21
イエスは彼に言われた、「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい」。
19:22
この言葉を聞いて、青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの資産を持っていたからである。
引用終わり)
 
永遠の命を得る、つまり完全になる、ということを、人は目指せるとも、また、目指して、達成したとも、守っているとも、言える人は、一人もいない。守っている、ということが言えるのは、キリストご自身だけである。
 
引用)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
引用終わり)
 
この教えを読んで、戸惑う人は多いだろう。中には、結婚して子供を作る目的においてのみ、罪ではない、と言う者もいる。しかし、キリストの教えを、自分で手加減してはいけない。この教えを守れるのは、恐らく、またしても、キリストだけだろう。
 
罪なき者は一人もいない、ということだろうと思う。なぜ、神のようになりたいと思うのか。なぜ、神のように、完全になろうとするのか、また、そのように、思わせようとするのか。神になるのではなく、人間らしい人となりなさい。そのために罪の赦しがあるのだ。
 
このあとも、神の要求するところの厳しさを伝える言葉が続く。
 
引用)
5:38
『目には目を、歯には歯を』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。 5:39
しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、ほかの頬をも向けてやりなさい。
5:40
あなたを訴えて、下着を取ろうとする者には、上着をも与えなさい。
5:41
もし、だれかが、あなたをしいて一マイル行かせようとするなら、その人と共に二マイル行きなさい。
5:42
求める者には与え、借りようとする者を断るな。
引用終わり)
 
出来ると思うなら、やってみるがいい、と言いたくなるほど、キリストは無理を承知で言っていると受け取るべきである。自らの不全と醜さを神の前に隠してはいけない。自ら罪を避けられず、罪を認めるしかないことで、神に赦しを乞う者となりなさい。
 
引用)
5:43
『隣り人を愛し、敵を憎め』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:44
しかし、わたしはあなたがたに言う。敵を愛し、迫害する者のために祈れ。
引用終わり)
 
敵を愛します、と言って、愛しましたから、これで御心に適った、と言うなら、その者は、大方、偽善者である。敵を愛したのは、またしても、キリストだけである。
 
引用)
7:21
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
引用終わり)
 
天国に入れるものは、本来、一人もいない、ということから始まっていることを弁えておくべきである。この教えを純粋に行えるのは、またしても、キリストだけである。
 
その上で、キリストが救った人々を考えてほしい。彼らは、御旨を行っていたか、否であり、彼らは、ただ、キリストの前で、正直であった、という、それだけで、御国に至る義を与えられたのである。人間には出来ないことを、人は人に言うべきではない。
 
また、私には・・出来ません・・という嘆きを、キリストは既にご存知である。御旨を行う、という、キリストの教えの根底には、常に、このことがあると考えるべきだろう。その上で、まれに信仰者は、ときに、驚くべき気高い行いをする、ということがあるのだ。
 
引用)
7:26
また、わたしのこれらの言葉を聞いても行わない者を、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができよう。
7:27
雨が降り、洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまう。そしてその倒れ方はひどいのである」。
引用終わり)
 
だから、キリストの言葉と行いの両面から、キリストの真意を理解するべきであろう。倒れ方の酷いのは、前の聖句のように、御旨を理解できないのに出来るつもりの者、さらに、御旨に沿わず、行っていないのに、行ったつもりでいる者、悪を善と見せかける者たちである。
 
この説教を聞いていた者の中に、のちにキリストを殺した者たちが多くいたであろうことを推測する。彼らこそ、砂の上に自分の家を建てた愚かな人たちである。彼らは、教えを貫いているのが、愛、という大いなるものであることを理解しなかった。
 
この文章だけの文法や一字一句にこだわるだけでなく、キリストの言動の全体を見て、キリストが最も対立した者たちは、文字通り行えなかった者ではなく、御旨を理解せずに、行ったつもりで善を気取っていた偽善者だったことを考えるべきだろう。
 
引用)
5:3
「こころの貧しい人たちは、さいわいである、
天国は彼らのものである。
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
5:5
柔和な人たちは、さいわいである、
彼らは地を受けつぐであろう。
5:6
義に飢えかわいている人たちは、さいわいである、
彼らは飽き足りるようになるであろう。
5:7
あわれみ深い人たちは、さいわいである、
彼らはあわれみを受けるであろう。
5:8
心の清い人たちは、さいわいである、
彼らは神を見るであろう。
5:9
平和をつくり出す人たちは、さいわいである、
彼らは神の子と呼ばれるであろう。
5:10
義のために迫害されてきた人たちは、
さいわいである、
天国は彼らのものである。
引用終わり)
 
パウロの愛の賛歌もそうですが、この聖句を初めて読んだとき、私は、とても慰めにもなったし、気持ちがよかったのです。何か、よいことに目覚めさせてもらったような感じでした。しかし、その後、うっとりばかりはしていられない現実があることを考え始めました。
 
虚心になり受け止められる機会を逃さぬように、という、そのままの意味に加えて、私たちは、しばしば、心がおごっている。
そのままの意味に加えて、純粋に悲しんでいる人は、それほど多くない。多くの人は、やり場のない自他への恨みを片手に握っているものだ。
そのままの意味に加えて、柔和さを、丁寧な言葉面に変えて、人を惑わす者を警戒しなさい。私たちが成りやすいのは、そういう者だということを弁えて警戒するべきである。
そのままの意味に加えて、義に飢え乾いている者は、そうはいない。多くは欲望に飢え乾いている。しかも、それで、義に乾いていると言い張る者が多いのだ。
そのままの意味に加えて、憐れみは、乞食にくれてやる残飯ではなく、命を捧げることだ。それが出来るのは、またしても、キリストご自身だけである。
そのままの意味に加えて、心の清いことも、平和を作り出すことも、できたと思ってはいけない。自分で神の子だと思ってはならない。それを決めるのは、ただ御一方、神だけである。
そのままの意味に加えて、自分に不都合なことを、迫害だと決めつけてはいけない。それを決めるのは神であって、人は、自らの罪と不全を思い、祈りとして神に捧げるべきである。
 
以上の教えについての、負の現実の意味には、キリストはそれを既に知っておられる、キリストは人が罪深いことを既に知っておれる、ということがついてくるでしょう。神の全知、すなわち、既に知っておられる、という救いがあるということでもあります。
 
できないことのために悲しむ人を、神は憐れんで、キリストを遣わしたのだから、間違っても、できると勘違いして、そのままの意味だけを伝えて、これらの教えを守りなさいと、人に、そればかりを伝えるようであってはいけない。
 
信仰者は、できないことについて、できたらいいなと、夢を見るように、うっとりしているよりは、祈りの正直さ、ただそれだけに努めるべきである。聖書を読む限り、救われた人々を考える限り、そこが、神の憐れみを受けるための唯一の条件である。
 
 
(2018年01月24日、同日一部修正)
 
酷い(ひどい、むごい)
弁える(わきまえる)
 
 
 
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