十字架と復活
 
 
多くのキリスト者は
社会適応し、そこそこの地位にいて、
上品に、あくまで社会においても正当に、
信仰を語り継ぐことで、
自らの地位の保全と信仰の両立を図ろうとしている。
 
キリストの時代
キリストの生涯において
人間の社会はそれを成り立たせなかった。
これは今も変わらない人間の罪である。
 
ホントのことを言ったら、オリコウになれない
(「フランシーヌの場合」
https://www.uta-net.com/movie/4010/
 
キリストは、愛に溢れた正しい神の御言葉を伝えながら、
どこまでも弱い人間として最期を迎える使命だった。
 
キリストは、ならず者のように、
捕まり、鞭打たれ、十字架につけられて死んだ。
 
それらの悲しみと苦しみは、
復活によって全て払拭されただろうか。
 
忘れてはいけない。
キリストは社会不適応者として殺されたこと。
その惨めさは酷いもので
キリストご自身はそれに耐えたのであって、
 
私たちがキリストの復活の
栄光の晴れ舞台を讃美で飾る資格は本来ないのだ。
 
私たちが出来なかったことのゆえに
キリストは十字架についたのである。
 
二千年前の肉体の復活だけを信仰の中心だと思うなら、
そう思って、思い込んで、信じ込んで、
この地上を過ごすのだろうか。
その分、今、大切にするべき人間の弁えと
情感を損なってゆくだろう。
そしてまた誰かを十字架にかけることになるのだろうか。
 
私たちは神の栄光を思うよりも
私たちの罪を思うべきである。
キリスト信仰はそこに成り立っているからだ。
 
神は超常に近くなることを、
人に求めるだろうか。
 
それは否である、という答えの根拠は
キリストが救った人々を考えれば明らかである。
 
例えば、
あなたの信仰があなたを救った、
とまで言われた人は、
遜る姿を善しと認められたが、
超常に近づくことを求めはしなかったし、
求められもしなかった。
 
キリストは、
罪と低さを思わずにはいられなかった人々を救った。
 
パリサイ人は、戒律を振りかざし、
神の救いばかりを語った。
 
キリスト者が人間であるなら、
神について語れることが
あまりにも少ないことを知っている。
 
しかし私たちが
キリストの墓参りをしないのは、
キリストが今も生きておられるからだ。
聖霊はキリストの命と言えるかもしれない。
 
私たちは、
超常を語る上では、
「かもしれない」精神を持つべきである。
 
私たちは、
超常よりも人情を語るべきだ。
 
この二千年の間、不滅のキリストは
数えきれないキリスト者を生み出し
育てて、今に至っている。
したがって
キリストの復活は明らかであるのに、
 
二千年前の肉体の復活にこだわるのは、
死体が動き出すような超常を
共にしたい者たちだけだろう。
 
私たちは超常ではなく生きた人間として、
キリストと
命と心と涙と温もりを共にしたいのである。
 
 
(2018年01月25日、同日一部修正)
 
鞭(むち)
払拭(ふっしょく)
惨め(みじめ)
酷い(むごい、ひどい)
遜る(へりくだる、謙る)
溢れる(あふれる)
 
 
 
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