判断
 
 
私たちは、皆、いつの間にか、
信仰を自意識の中に取り込んでしまっている
と思っておいたほうがよいだろう。
 
自分は神に救われると決めている心からは、
自分と違う信仰は
神の御心と違う信仰になり、
受け入れられなくなって呆れる対象・・。
 
例として、ある牧師と、
ある日、一緒に道を歩いていると、
酔っ払いが機嫌よく笑って近づいてきた。
適当にあしらうこともできただろうし、
それが普通だと思うのだが、
 
牧師は大声で一喝した。
酔っ払いは信用できないというのは分かるが、
怒鳴って退ける理由にはならない。
その瞬間、牧師は神の立場に立って裁いている。
 
酔っ払いは、
あまりに驚いて、
わなわな震えながら怒りながら、
酒瓶を落とした。割れた。
 
別の日、
洗礼式で発作を起こした人の話をすると、
その牧師は、にわかに顔が曇って、
濁った目つきで横を向いて
小さく舌打ちをした。
 
まだそんなことを言っているのか
と責めているような・・
 
その教会を去ってよかった
と思っても不思議はあるまい。
 
でもその牧師は、
いわゆるカルト的な悪い牧師ではなく、
「分からないことは分からないと言います」
と言える人だった。
 
特に悪い人ということではなく
誰でも、神のしもべが、
人であるのに、
神の立場に立ってしまうと
分不相応の行為に至ることがあるということ。
 
善悪の判断が
神のごとく出来るかのように思ってしまうのだろうか。
 
自分の言動の結果と影響を
どこまで確認できるというのか。
いつまで確認できるというのか。
 
生きる時空を制限された人間が、
どうして確かな判断などできるだろう。
どうして神の判断などできるだろう。
 
多くの場合、
特に咄嗟の判断と反応において
初歩的な善悪の判断で決めたことを
愛の行為か
悪の行為か、決めて、
神の判断であるかのように錯覚している。
 
困ったときに
弱るのではなく、
意地を張ってか、
信仰の強さを見せようとする。
 
聖職者というのは、
恐らく、様々な場面で緊張を強いられ、
語らいと説教と儀式を担当している。
大変だが、
人間として忍耐強くなければならない時に
強さを勘違いしてはならない。
 
聖職者は
聖書の知識のある信仰者であるが、
御使いでもなければ預言者でもない。
 
困ったときには弱り、
弱いときには悲しみ、
主に捧げて祈る姿勢を信仰の立場という。
 
 
(2018年01月28日、同日一部修正)
 
一喝(いっかつ)
曇る(くもる)
咄嗟(とっさ)
濁る(にごる)
 
 
 
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