批判的な記事が続きますが・・
 
 
  超常と偽善
 
 
経験から想定されるところの、スピリチュアルよりも悪質な、お金目当てではない詐欺のようなものについて書いておきます。かなり今まで書いてきた悪質なカルトの話とも重複します。自尊目当ての、頼まれもしないのに関わってきやすい偽善者の話です。
 
超常もスピリチュアルも占いも、趣味や興味としては自由なのだが、私たちは、趣味や興味としてキリストを信じているわけではないのだから、一生をかけて、神を頼みとしている立場からは、趣味的超常世界に身をゆだねることは出来ないわけです。
 
例えば、独りの人が、霊感が強くて、いろいろ言い当てることも多いのなら、それは特別の人として興味の対象にはなるだろう。しかし、それは、その人限りのことなのだから、また、その人が仮に100%言い当てる能力を持っていたとしても、一生面倒見てくれるわけでもないのだから、付き合いは、人付き合いの域を出るものではありません。
 
だから、詐欺師のような人が紛れ込んでいる可能性に気を付ける必要はあるが、言い換えれば、その人が、言い当てても、言い当てなくても、普通の人付き合いよりも低く見るような、軽蔑の対象にもならないということです。
 
私たちの脅威となるのは、スピリチュアルらしい姿をしている者ではなく、普通の信仰者の姿と振る舞いを装う者のことです。
 
 
私たちが、より警戒するべきなのは、スピリチュアルや占いでなくても、キリストと神を信じると言いながら、その実態は、裏で自分を飾り、正当化して、批判者を封じ込めるような悪さを平気でやっている者、すなわち、偽善者でありながら、キリスト者を装う者である。
 
そういう偽善者は、超常の奇跡も、肉体の復活も、譲れないと言うほどに頑迷に信じていると言うけれど、呆れるほど人間に無関心である。人との共感は必要ないとさえ言って学習も反省もしないため、人間の気持ちが分からず、ただ超常の救いだと自分で決めたことに熱中して、一方的で、その場にそぐわない素っ頓狂な文脈や応答を見せてくる。
 
さらに、それを見抜かれないように、たくさんの宗教的用語や讃美の言葉を学習している。さらに、うわべの丁寧な言葉づかいで、柔和の体裁を装うのだが、いったん、バレそうになると、手段を選ばずに見ていないところで攻撃的になって、そこで怖さに気づいた人は、巻き添えにならないために、退散することになる。
 
勝手に悦に入り、自分と同じ信仰者?を増やそうと思っている独善の者は、その者にとって不都合な出会いを否定し、不都合な人物をいなかったものにするために、邪魔な人には退散してもらうことを、むしろ好都合なこととして、望んでいるのである。批判者に対しては、まず、邪魔だけはするな、という考えのようだ。
 
そういう独善の偽善者は、わざと、相手が自分に向けてきそうな批判を、つまり自己中心の背教の有り様を、それは偽善者にぴったり当てはまるのだが、それを批判者に浴びせて、批判者が呆れて、駄目だこりゃと、去ってくれるのが好都合であり、そのように仕向けるほか、全く根拠もなく相手を心の病や異教徒に仕立てて侮辱してくる者もいる。手段を選ばず、相手が呆れて去ってゆくことによって、世を凌いでいるのである。自己中心に人間を物のように捌いて人を傷つけることを何とも思わないで生業としている者もいるようだ。
 
よって、百害あって一利もないのだが、放置すると、気の弱い人や、藁をもつかみたい人は、白々しいバカ丁寧さが優しさに見えて、言葉だけの讃美を真に受けて、ひとかどの人物と思ってしまい、尊敬して、のちに、ひどい目に遭うことになる。
 
気を付けないといけないのは、そういう者が、必ずしも、金品目的ではない場合があるということだ。自分が尊敬され、自尊を満足させれば、いい気持になり、それを、半ば本気で、信仰と呼んでいることもある。むしろ、お金の話などはしない、ということをもって、安心させることから、しばしば、心を囚われる犠牲者が出てくるのである。
 
そして、その結果、偽善者の義理?か柵(しがらみ)のような束縛から逃れられなければ、その偽善者と同じような独善に嵌り、今度は、被害者から加害者になってゆく可能性もある。
 
そういう囚われの結果は、人の言うことを聞かず、世辞以上の交流を求めず自閉的であり、訂正不能の思考停止に陥り、自己の信条を無根拠に絶対化し正当化して、心には、他者や社会への怨念と敵意が鬱積内燃しているような信仰?の有り様になる。
 
 
騙されないように、しっかりした信仰をもって見分ける、と言いたいが、しっかりした信仰ほど当てにならないことがあります。何故なら、キリスト信仰は、その触れにくい部分に、神が関わるゆえに、超常の要素が否定しようもなく、人が解明できないものとして、あるからです。
 
問答をしても、超常話vs超常話になりやすく、埒が明かないことをもって、偽善者は、怒って去るのではなく、偽善者らしい見かけ思いやりの素振りで、引き分けですな・・ということにしてくるでしょう。その者にしてみれば、金品目当てではなく、相手を屈服させる目的でもないので、自分も賢者・・ということになれば満足なのです。
 
このように、一見、大した害はないように見えるかもしれないが、心を侵食されるということは、後々、大きな災いをもたらし、立ち直りも難しく、時間がかかり、後遺症のように引きずる場合も考えられるところなのです。それは、超常に心が残りやすいから、後の信仰の行く先が、おかしくなりやすいということです。
 
災いを避けるためには、信仰があるから大丈夫・・ではなく、超常にこだわる性質を脱却しないといけません。信仰は人間のためのもの、という意識をもって、人間ならば・・ということを考えている必要があります。人間に超常は必要ありません。超常からの計らい、それは神のものです。人間は、人間らしく、泣いたり笑ったりの情感の豊かさこそが、信仰を育てるのであって、超常の独善とは、はっきり違うということです。
 
 
(2018年02月03日、同日一部修正)
 
素っ頓狂(すっとんきょう)
藁(わら)
埒が明かない(らちがあかない)
素振り(そぶり)
嵌る(はまる)
柵(しがらみ)
捌く(さばく)
生業(なりわい)
囚われる(とらわれる)
鬱積(うっせき)
 
 
 
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