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 「キリスト教に関する来訪者の声」を読む
 2021年08月13日 楽山日記(LD)
 
 
記事の大方は、リンクを貼っているようですが、いつものように、他者の口を借りて、キリスト教と信仰に、いちゃもんを言ってくる卑怯者の楽山です。楽山は、話にならない人はスルーすると言っていましたが、いちばん、話にならないのは、楽山です。こちらは、リンクは貼りません。
 
楽山は、訂正不能の腐敗に陥ると、正当なものは、一切、理解できないのに、分かったつもりの、だまし言葉で、立派に見せようとしてくる、という履歴であり、面白くもない偽善の道化なのです。楽山は、他者の都合を一切無視してくるので、楽山の言も一切無視してください。
 
*知る喜び
この間から、佐倉哲エッセイ集の「キリスト教に関する来訪者の声」を読み返しているが相変わらず面白く、かつ勉強になる。
以下に、今回特に心に響いたところをメモしておきたい。
 
先ず、楽山は、勉強をしない人です。自分の快感につながる都合のよいことを漁っているだけです。その証拠に、読書したはずの楽山の宗教観は、読めたものではないのです。
 
*信仰と探究
まずこのやりとりは、自分には真に迫るものがある。以前とある宗教を信じていた時に、「この宗教は正しい。自分は正しい宗教を信じている」という信仰と、「正しい宗教とは何か? この宗教は本当に正しいといえるのか?」という探究心との間で悩んだことがあったので。
・「キリスト教撲滅運動か」
 
どうして、その間に悩むというのでしょう。しかも、言葉だけ探求心と言っていますが、楽山にあるのは、クリミナルマインドだけだと思います。別個の問題を区別できない楽山が表れています。なお、「正しい宗教」も、信仰も、楽山は書いたことはありません。心に響くところがないのです。
 
*あれかこれか
これも自分には他人事とは思えないやりとりである。以前信じていた、とある宗教も自由を推奨しつつも正邪善悪をはっきり区分し、二者択一を迫るところがあったので。
・「二者択一の論理」
 
嘘です。楽山には、すべて他人事だと思います。というのは、楽山には、まともな自分がなく、この記事もそうですが、他人の言うことを、我執と我欲で選んで、もっともらしく、また、問題をすり替えて、見せてくるだけなのです。
 
*内村鑑三
佐倉哲氏がここで紹介している内村鑑三の言葉は、自分にとっては真っ赤に焼けた鉄のようであり、一度触れれば魂に深く焼印を押され、もう二度と忘れることはできなくなるようなものだ。内村鑑三は大きな人だと思う。
・「内村鑑三」
 
楽山は、真っ赤な嘘と、焼けただれた言葉を、記事に貼り付けて送信し、それを、記事とか文章とか稿とか呼んでいるだけです。内村鑑三も、激しいところがあるので、それを、楽山は、好きなように悪用しているのです。最後には楽山自身が焼けただれることも知らずに。
 
楽山は、読む人に、最初は、やんわりと、ついには、消えようのない焼き印のように、刷り込んでゆく独りカルトの煽動者です。反省もせず、責任も負わないで、楽山が書いてくるところの、丁寧語と、学者気取りに、だまされないようにしてください。
 
*生け贄と神観念
ここでは日本人にとって生け贄という考え方が難解である理由が、分かりやすく説明されている。日本的感覚では生け贄を要求する絶対的な権力者は、「やまたのおろち」と同様に悪と受け止められるというのはその通りだと思う。少なくとも自分にはそういう感覚はある。
・「十字架」
・「十字架のあがないと日本人」
 
楽山は、それこそ、生きた人間と、生きた良心を、焼き尽くす生け贄として、求めているのでしょう。心の底から腐ってしまうと、このように、人間離れした悪魔性になるということを、楽山は、示しています。悪魔性が、人間らしさと、インテリ気取りで、書いているインチキブログです。
 
*本音と建前
ここでは聖書の無謬性についての本音と建前が語られている。
こういう文章を読んでいると、自分が信じていたとある宗教でも似た考え方があったのを思い出す。普段は「この教えは最高の真理だ。史上、これだけ素晴らしい真理が説かれたことはない」としつつも、その教えに間違いが含まれていることを指摘されると「それは枝葉の部分にすぎません。教えの本質を見てください。この本質においては少しの間違いもありません」というのである。この辺りの本音と建前は、どこの宗教でも変わらないのかもしれぬ。
・「写本・訳本問題」
 
信仰は、枝葉ではなく、有無の問題です。行為義認ではなく、道徳でもありません。楽山は、今までの経過から、信仰を、多からず少なからずの安い楽山レベルの安い道徳におとしめてきます。元々、救われる気もなく、見せかけの優しさと霊能者気取りのエゴイストに、だまされてはいけません。
 
*つづき
つづきは、稿を改めて…。
 
まだ書くという脅しでしょうか・・・楽山の稿は、疲労と徒労の入り口です。あらゆる問題を無視して書いてくる楽山の文章には、今まで、説得力も、本心も、見られたことはありません。表れてくるのは、嘘と詭弁とペテンと悪意だけです。どうか、楽山を相手にしないでください。
 
 
(2021年08月14日)
 
 
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 2021年08月13日
 幸福の科学とは何だろう?ブログ by 楽山
 「ブログ村騒動」発言集(コピペ批判)
 
 
*まえおき
数年前、ブログ村の幸福の科学カテゴリー内において、HS信者同士の争いがありました。通称、「ブログ村騒動」です。
*発言集
では、コピペ批判に関連した発言を貼ります。
 
いつものように、他者のことばかり言ってくる楽山です。
 
コピペブログをやってる人たちは、自分では文章は書けないけど、幸福の科学の教えは広めたいという気持ちから、せっせとコピペ記事作成してるのだろうし、きちんとコピペ元を明示してリンクを貼ってるなら、よしとしてあげてもいいような気はするけど、どうだろう。甘すぎるかな。
でも信者村では、コピペブログはいくつもあるし、ガンさんはいくつものブログに噛みついた形になっちゃってるな。
 
弱気の筆致で描いていますが、これは、楽山の芝居で、トホホ言語と呼んでいます。責任を薄くするための、お道化の一種でしょう。楽山は、「きちんとコピペ元を明示」しているでしょうか。「>」の使い方が、雑です。リンクを付ける作業もしていません。怠け者らしい書き方です。
 
楽山は、自分の意見に軸がないので、他者から、特に、有名人の本から、都合のいい文言を引っ張ってきます。誤解とかは考えず、自分のために、有名人さえも利用して、自分も同じレベルだと、学者やインテリを気取ります。
 
相変わらず、コピペブログ批判をしてるようだ。
傍から見てると、ブログの方針にしても、アンチへの対応にしても、それぞれのブログによってちがっていていいと思うのだが、それじゃあダメなのかなあ。
 
ボンヤリ言語「かなあ」が出ています。いい加減なことしか言えず、責任を負う気のない者の筆致です。それで、言ったことの責任がなくなることはありません。「ちがっていていい」と言って、引用して、責任は負わないわけです。そういう引用は、いちばん、厄介でしょう。
 
「信者ブログはこうあるべきだ」「アンチにはこのように対処すべきだ」という自分なりのポリシーを持つのは悪いことではないだろうけど、他人も自分と同じようにすべきだというのは行き過ぎのように思える。
 
「こうあるべきだ」に対して、別のあり方を提示して説明することが、楽山には、できないのです。だから、何でも、議論も、言論も、投稿も、ブログも、リンクも、本の引用も、すべて、いい加減になってゆくのは、無責任の証拠でしょう。楽山には自己愛性人格障害の病識がありません。
 
責任を負わないのなら、意見を言うべきではありません。自分のしっかりした意見が、楽山には、ないのです。楽山の人生観は、言いたいこと言って、気が変わったら、訂正も反省もせずに、好き勝手に、違うことを言ってもいいという考えなのでしょうか。だとしたら、社会人ではありません。
 
他にも、書いてありますが、似たようなものですし、お情けちょうだいの「かなあ」「だなあ」「なかろうか」の、ボンヤリ言語・トホホ言語で、まるで、おねだりしているような筆致は、臭くて、読むに耐えません。
 
 
(2021年08月14日)
 
 
 
  縊死(いし)
 
幾人かの自殺者が残していったものは
あまりにも急な沈黙に終わってしまって
動機も理由も結局は不明のまま
明確に語れる者は誰もいなくて
噂だけが死臭のように漂ってはくるが
口の中でムニャムニャ
聞こうとして聞くに憚(はばか)り
そのムニャムニャが胸の底まで沈んでいって
さらに病みながら片隅にあるばかり
 
キリスト者とはいえ自分の場合は
自殺しない保証は何もないから
せめて「ごめんなさい」と
祈りともつかぬ最後の独り言を
今更のように戯言を
そのときには呟くしかないのだろうか
すべては自分の責任において
首を括り首を吊る
責任と意志
 
いつの日からか
我が身から出たものは
いずれ我が身に返ってくる習いから
その顔が溢血点や鬱血や
腐乱や浮腫でどんなに醜くかろうとも
正視しなければならない
 
そう気づいたときから
自分で自分の首を絞める
という縊死は
繰り返される日常の中にある
 
 
(2000年代か)
 
 
 
 楽山のツイッターですが
 
心機一転★こも楽山
@komo266
与国さんなりに、自分に正直に、真摯に、命がけで意見を述べたのに、
霊的に悪い波動を受けての発言ですね、反省行に打ち込んでください、で済まされたんじゃ、たまったもんじゃないな。
まあHSでは、教祖、教団に不都合な意見は「下のものに言わせられてる」で片付けられるのが当たり前なんだけど。
午前7:09 · 2021年8月13日
 
「霊的に悪い波動」は、霊能者気取りの楽山の嘘と詭弁が専門です。楽山は、ふつうに生きてるつもりなのでしょうか。教団の不都合を言いながら、一方では、キリスト信仰をおとしめて、右翼思想家を讃えて、霊やホラーに気を奪われて、他者の気を奪っている超・無反省・無責任の楽山です。
 
 
 
(古い記事は載っていません)
 
http://st5402jp.livedoor.blog/
(古い記事もインポート済み)
 
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(ここは、ブログ記事をリンク・抜粋)
 
 
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