士師記:エフタ(2)
 
 
この部分についての解釈が割れているようなので、参考のために、もう一度引用し、二通りの解釈を挙げておきたいと思います。
 
 (士師記、口語訳)
11:30-31
エフタは主に誓願を立てて言った、「もしあなたがアンモンの人々をわたしの手にわたされるならば、 わたしがアンモンの人々に勝って帰るときに、わたしの家の戸口から出てきて、わたしを迎えるものはだれでも主のものとし、その者を燔祭としてささげましょう」。
11:32-33
エフタはアンモンの人々のところに進んで行って、彼らと戦ったが、主は彼らをエフタの手にわたされたので、 アロエルからミンニテの附近まで、二十の町を撃ち敗り、アベル・ケラミムに至るまで、非常に多くの人を殺した。こうしてアンモンの人々はイスラエルの人々の前に攻め伏せられた。
11:34
やがてエフタはミヅパに帰り、自分の家に来ると、彼の娘が鼓をもち、舞い踊って彼を出迎えた。彼女はエフタのひとり子で、ほかに男子も女子もなかった。
11:35
エフタは彼女を見ると、衣を裂いて言った、「ああ、娘よ、あなたは全くわたしを打ちのめした。わたしを悩ますものとなった。わたしが主に誓ったのだから改めることはできないのだ」。
11:36
娘は言った、「父よ、あなたは主に誓われたのですから、主があなたのために、あなたの敵アンモンの人々に報復された今、あなたが言われたとおりにわたしにしてください」。
11:37
娘はまた父に言った、「どうぞ、この事をわたしにさせてください。すなわち二か月の間わたしをゆるし、友だちと一緒に行って、山々をゆきめぐり、わたしの処女であることを嘆かせてください」。
11:38
エフタは「行きなさい」と言って、彼女を二か月の間、出してやった。彼女は友だちと一緒に行って、山の上で自分の処女であることを嘆いたが、
11:39
二か月の後、父のもとに帰ってきたので、父は誓った誓願のとおりに彼女におこなった。彼女はついに男を知らなかった。
11:40
これによって年々イスラエルの娘たちは行って、年に四日ほどギレアデびとエフタの娘のために嘆くことがイスラエルのならわしとなった。
 (士師記11:30-40、旧約聖書)
 
(A)
一つは、
サイト名:聖書の事実
http://www.thebible.jp/%E3%82%A8%E3%83%95%E3%82%BF%E3%81%AF%E6%9C%AC%E5%BD%93%E3%81%AB%E8%87%AA%E5%88%86%E3%81%AE%E5%A8%98%E3%82%92%E6%8D%A7%E3%81%92%E3%81%9F%E3%81%AE%E3%81%A7%E3%81%97%E3%82%87%E3%81%86%E3%81%8B.htm
「著名なヘブライ語の文法学者、評論家でしたが、彼ら全員が、この誓いの言葉を1つの目的語で解釈するのではなく2つの部分に分けて解釈する方法を無条件に承認しているのです。
これは、文章が前半と後半に分かれている時に接続語(ヘブライ語でvauもしくは英語ではvで表現されることもある)が離接語として使われ、「または」という意味を持つ、という良く知られているルールによって成立します。実際にA.V.(欽定訳)の士師記第11章31節では、この方法が代替解釈法として載っています。
・・・
詩篇第106篇35節から38節やイザヤ書第57章5節など、聖書全体からも、人間をいけにえとして献げることは神の目から禁じられたものであると結論付けることができます。神がそれを受け入れることも、エフタが人間の血を献げたということも信じがたいことです。この考え自体を支持することはエホバの神、そしてエフタに対する侮辱行為とも言えるでしょう。」
と書いてあり、
そして30-31節を
「エフタは主に誓いを立てて言った。『もしあなたがアンモン人をわたしの手に渡してくださるなら、わたしがアンモンとの戦いから無事に帰るとき、わたしの家の戸口からわたしを迎えに出て来る者を主のものといたします。(または)わたしはその者を、焼き尽くす献げ物といたします。』」
という文脈と見なし、
「いけにえの死ではなく、この娘の人生を捧げることに関係があったのです。彼女は生涯処女として生きるように捧げられたのでした。」
 
と解釈しています。
つまり、エフタは娘を殺していないという解釈になります。
 
(B)
もう一つは、
「旧約聖書メッセージ:士師記11-12章 「知識なき信仰」
http://www.logos-ministries.org/old_b/jdg11-12.html
エフタは、現代に生きている私たちの価値観では、考えられないことを今、主に誓願として立てています。自分の戸口から出てくる者を全焼にいけにえにする、というのは、人間をいけにえにするということです。当時、イスラエルの神ではない異教の世界では、人間のいけにえはごく普通に行なわれていました。・・・イスラエルの神である主は、このような忌まわしいことは断じてしてはいけない、と命じられています。
・・・
問題は何でしょうか?エフタには聖書の知識が半分しかなかったことです。彼は戦いについて、イスラエルの神が戦ってくださることについての知識がありました。・・・。けれども彼は、異教の環境の中にずっといたため、その習慣を使って神の命令を実行してしまおうとしたのです。
 興味深い逸話(事実かもしれませんが)を聞いたことがあります。ある未開の地に伝道しにいった宣教師がいました。その酋長がイエスさまを信じました。多くの妻がいたので、宣教師は、「多くの妻を持ってはいけない。一人の妻であるべきだ。」ということを話したらしいです。そうしてしばらくして戻ってきたら、酋長には一人の妻しかいませんでした。「他の妻たちはどうしたのですか?」と宣教師が聞いたら、「彼女たちは食べました。」と答えたそうです。
これが、神が言われていることを守り行いたいという情熱があっても、知識がないために犯してしまう間違いです。
・・・
誓願どおりに行なったとありますから、彼女を全焼のいけにえとしてささげたのでしょう。そうではないという解釈もありますが、人間のいけにえをささげたと読むのが一番自然です。」
 
と書いてあります。つまり殺したということです。
 
まるで(B)を支持するかのように?、エフタが不遇であったため、乱暴者だという箇所が同章にあります。
 
 (士師記、口語訳)
11:3
それでエフタはその兄弟たちのもとから逃げ去って、トブの地に住んでいると、やくざ者がエフタのもとに集まってきて、彼と一緒に出かけて略奪を事としていた。
 (士師記11:3、旧約聖書)
 
しかし、そのエフタを、一度は、神は肯定したことになります。
 
 (士師記、口語訳)
11:9
エフタはギレアデの長老たちに言った、「もしあなたがたが、わたしをつれて帰って、アンモンの人々と戦わせるとき、主が彼らをわたしにわたされるならば、わたしはあなたがたのかしらとなりましょう」。
11:10
ギレアデの長老たちはエフタに言った、「主はあなたとわたしたちの間の証人です。わたしたちは必ずあなたの言われるとおりにしましょう」。
11:11
そこでエフタはギレアデの長老たちと一緒に行った。民は彼を立てて自分たちのかしらとし、大将とした。それでエフタはミヅパで、自分の言葉をことごとく主の前に述べた。
 (士師記11:9-11、旧約聖書)
 
実際、32節に「主は彼らをエフタの手にわたされた」とあるように、神はエフタの言うとおりにしたのですから。
 
私の感想としては、神はエフタを一度は肯定したのだから、娘を殺さなくてよいように、止めるなり、教えるなり、もっと軽い罰とか、他にやり方はないのか、という気持ちです。
 
この点は、(B)の、エフタは、殺すなかれ、に背いた乱暴者で娘を殺すに至った、よりも、(A)の、殺さなかったよ、という解釈のほうが安心感はあるでしょう。
 
37~39節については、分かりにくかったのですが、
https://blogs.yahoo.co.jp/xaris/35196010.html
エフタの娘が純潔を守り通したことについてですが、
それはむしろ、恥ずべき事でした。
古代では、女性が妻にもならず、母にもならないということは、非常な罪、恥ずべき事と考えられていました。」
ということで、処女であることを恥じている37~39節の聖句は、当時の考え方と思えば分かるような気もします。
 
ということで、生涯処女であることは恥であり望ましいことではなかったという解釈から、ゆえに(A)ではなく、エフタは娘を生贄として殺したという(B)の主張になります。
 
ただ、(A)の主張から見ると、エフタの娘を望ましくないようにすることが、神がエフタに与えた罰ということになるのでしょうか。
 
私は、知識不足もあり、解釈は苦手なので、どちらが正しいかについては書けません。
 
しかし、こう真っ二つに分かれていては、旧約の神は恐ろしいという私の疑問は、全く解消されません。ゆえに、私は、かたくなに、なお「神を畏れる」ではなく「神を恐れる」である、と言うことになり、私は、聖書のこの個所を、相変わらず、解釈としては、私個人の「分からない保留の箱」に入れることになります。
 
 
(2018年02月28日、同日一部修正)
 
 
 
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