信条
 
 
難しく言えば
信仰は個別の契約ということになります。
 
その必然は
人それぞれに生き方も環境も違うから
それぞれの人生で
信仰の表れ方も違うということです。
 
しかし「人それぞれ」を
上とは全く違う意味で悪用している者もいます。
 
そういう者は、
あなたはあなたで好きなようにすればよいし、
自分は自分で好きなようにする、という言い方をします。
 
神の導きと信仰の表れ方は個人によって違います。
しかし、言うまでもないことですが、
何でもかんでも好きなように解釈して
キリストの名を冠して信仰を語ってよいということになれば
好き勝手な言動によって
キリスト信仰は滅茶苦茶になるわけですから、
節操としてわきまえておくべきことが当然あります。
 
キリスト教においては
それを信条としてわきまえることになっていますが、
私が思うに
その信条には多く超常の信じ込みが含まれ、
救いの仕組みのような理屈が含まれています。
 
超常の奇跡を信じ込む必要があるでしょうか。
何度も申し上げましたが、
滅多に起こらないから奇跡なのです。
二千年前の奇跡の超常現象を事実として信じ込むことが
信仰の芯として機能するでしょうか。
 
今、私たちにとって
人間性や良心や人間の成長とはかけ離れて、
全くピンと来ない話を信じ込むことに、
どれほどの感動を伴う信仰の希望があると言うのでしょう。
 
前にも書きましたが、
私はしばしば祈っています。
二千年前の超常の奇跡を信じられないというだけで
神様は私を地獄の炎に渡されるのですか、と。
 
仕組みや理屈は心に言葉として固定されても
固定観念になりやすいものです。
信条を辿って納得するようなことを繰り返すたびに
頷きを繰り返すだけの慣習になってゆくでしょう。
 
人間が、人間として、信仰者として、キリスト者として、神の民として、頷けるのは、人間にとって、人間を悔い改めさせ、成長させ、人生を変え得るほどの情感と意欲を呼び起こす信仰の言葉です。信条にそれはありません。
 
何故なら、人間に対して、そのような活性を持つ言葉は、聖句だから一度聞いて覚えれば一生同じ活性を与えるというような固定したものではなく、知識の暗記とは別のもので、人間の経験に裏打ちされ、その時その場で生きてくる言葉であります。
 
キリスト教に対して、教会や牧師に対して、従順すぎる信徒と求道者の中には、幼子のように信じよう?と思って、信条や教理や解釈について、自分で感じて考えることをせず、盲目的に暗記しようとする人がいると思います。それを喜ぶ説教者は、カルトの確信犯のように罪深いと思います。「幼子のように」を繰り返す説教は、人間の持つ情感と思慮の自発性を損なうものであり、とても罪深いと思います。
 
信条をしっかり暗記して、解釈を学んでおれば、あとは神の導きがあると、安易に、未知の超常からの力に頼る、ということであってはいけません。そういう信じ方には、信条による縛りはあっても、信仰による解放はないからです。
 
信条は、そう信じますと言うことは出来ても、本当に信じるほどには地上での具体性を持たないものです。信条を心に持っていても、それがそのまま心の中で働くものではないように思います。信条は、忘れてはいけないことを覚えておくためにあるのだろうと思います。・・なかなか、信条について、過剰に決めつけて固定してはいけないし、かといって、疎かにしてもいけないから、うまく言い表すことが出来ません。
 
信条だけでは信仰の中心にはならないような気がします。大事なことは、信条を覚えているだけでは信仰の働きはなく、信条は、人間が信仰によって働くために、信仰観を思い出す切っ掛けとなる信仰の主要なテーマの命題を列挙した備忘録なのでしょう。
 
信条は、信仰によって人間が生かされる切っ掛けを忘れないように書いた言葉でしょう。
 
私たちは私たちで現実の毎日の経験の中で人間の信仰を生かす言葉を探し求める努力が、神に対する人間の務めであり、それが大したものでなくても、それをそのまま正直に神の御前に捧げる祈りこそが信仰また信仰生活であろうと思います。
 
人間の世界にいるあいだは、人間にとって、言葉は心の不完全な暗号であり、
 
信条は、信仰上は糧であり、解釈の要約であり、
前に書いたことですが、信条を覚えるのは是としても、
人間の心に生きて働く時の信仰の本質においては、
 
信条に信仰はなく、信仰に信条はない。
 
 
(2018年03月01日)
 
辿る(たどる)
頷く(うなずく)
疎か(おろそか)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]