アガペー
 
 
罪人のために、また、敵のためにも、十字架についたキリストですが、
 
犯罪人に対してか、敵に対してか、キリストは
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
(ルカによる福音書、口語訳、23:34、新約聖書)
と言いました。
 
これこそ、キリストの、敵をも愛するアガペーすなわち神の愛と示す言葉だと、私は素直には受け取れませんでした。
 
何故なら、彼らは分からずにいる、という言葉は、相手に対する最大の侮辱の言葉として辛辣な当てつけにもなりうるからです。
 
例えば、相手が説教をして、それを私が批判をしているときに、相手が私のことを、あなたは何をしているか分からないのです、または、あなたは分からない人なのですね、と言ったら、私は怒るだろう、という意味です。
 
キリストは、敵を、愛したのか、憎んだのか、
私は分からずにいたのです。
 
なぜ分からずにいたのでしょう。
 
十字架上で一人はキリストによって信仰の義を得ることになる犯罪人に向けられた言葉なら、憐れみの言葉として分かるべきなのかもしれないが、私は、パリサイ人たちを含めて言っていると考えて、上のように婉曲的な侮辱か強がりのように思ったのかもしれません。
 
しかし、それよりも、
私が、自分はキリストの側にいるからと、
パリサイ人などとは違うと、当然のように、
分かったつもりでいたからなのです。
 
しかし、自らを罪人の立場に置けば、さらには、キリストを殺す者たちの、反逆者の立場に置けば、この言葉が、誰でも、敵であった者でも、悔い改めれば救われる、という預言にもなるのです。
 
聖書そして福音書を読んでいるから、
十字架の顛末を知っているから、
当たり前のように、キリストを殺すパリサイ人たちを偽善者め、
と言ってしまう立場にいられるわけです。
 
もし仮に二千年前のその時に自分がいたら、
教えられた教条に硬直して
神の裁きに思い上がった殺意をもって
キリストを嘲る者たちの中にいたかもしれない。
周りで傍観していた分かっていない人々の中にいたかもしれない。
裏切って逃げている途中であったかもしれない。
 
イエスの家族のように嘆くことが出来るだろうか。
出来たとは思えない。今でこそ思う、私は罪人だから。
 
キリストを殺す側にいたかもしれない。
思えば、十字架のとき
キリストを支持すると表明できる勇敢な立場には
誰もいなかった。
 
興味本位だけで、キリストを見殺しにする者、硬直した偽善者、正しいという確信で、キリストを殺す者、自分がどこにいるか、正直言って、分かったものではない。
 
悪と偽善の罪の立場を、自分に当てはめて初めて、この言葉さえも、キリストから私たちへの、悔い改めのための救いの福音であることが分かるのです。
 
分からないことは、いけないことだと思うかもしれないが、私たち人間にとって、実は、意識しないだけで、現実においては、分からないことのほうが、はるかに多いわけです。
 
ですから、分かっているという自覚は思い上がりになりやすいのでしょう。
 
分かっているという自覚や、分からなければならないという自戒よりも、
分からないという自覚のほうが、はるかに深く、尊い・・。
 
「父よ、彼らをおゆるしください。彼らは何をしているのか、わからずにいるのです」。
 
キリストは、この言葉を、犯罪人やパリサイ人に言ったと受け取るべきではない。
この言葉は、誰よりも、私たちに向けられたとき、生きてくる。
 
私には今も分からずにいることがいっぱいあるのだろう、
ということを思い出させてくれる聖句です。
 
 
(2018年03月03日、同日一部修正)
 
顛末(てんまつ)
嘲る(あざける)
尊い(とうとい)
 
 
 
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