以前、このブログの始めのほうに書いたことではありますが、
宗教から生まれた思想というわけでもなく、個人として、
夢を見ている甘ちゃんと言われるのは覚悟の上で、また書いておきたいのです。

 
 
  生存の叫び
 
 
国家は
国民の生存権を守るためにある。
 
 福祉が大事なのは分かってますけど・・
 
福祉も生活保護も必要ですが
それをもって
生存権国家と言うのではありません。
 
 他に何があるっていうんです?
 
自衛隊を持つのは何のためですか。
警察があるのは何のためですか。
法制度を整えるのは何のためですか。
 
国民の生存権を守るためです。
 
 治安ということですか
 
さらには
経済の仕組みを整えるのは生存権のためです。
国が治安を必要とするのは生存権のためです。
役所があるのは生存権のためです。
愛国心を学ぶのは生存権のためです。
外交に苦労するのは生存権のためです。
総て国民の生存権のためです。
 
生存権を守ることは
あらゆる政策の正当性の唯一の根拠です。
 
政府が
国を統治し
治安を維持し
国民に法律を守らせるのは
ただ国民の生存権を守るためです。
 
広く生存権には
1.生物学的生存権:生存権
2.尊厳としての生存権:存在権
3.社会生活のための生存権:生活権
があります。2と3は個性に関わります。
 
国民の
あらゆる自由と権利はそこにあります。
あらゆる責任と義務はそこにあります。
政府の
あらゆる責任と義務はそこにあります。
 
結果は出てみなければ分かりません。
経過においては説得力が物を言うでしょう。
 
少なくとも最悪ではなく
機会ごとの最善を目指すことになります。
 
ただ
最も大切な力はコミュニティの人間力です。
それを法制度が支えるべきだと言っています。
 
あらゆる法制度を生かすのは人間力です。
 
あらゆる法制度を殺すのは非人間力です。
 
人間は
かなり貧乏でも
良好な人間関係があれば生きるでしょう。
 
自分に関わってくれる人間と人間性が
あると思えない時
人間は生きていけなくなるでしょう。
 
貧乏人がいなくなる世界ではなく
貧乏人が元気でいられる世界を目指すべきです。
 
ここでは
結果がどうこうと言うことよりも
経過として努力の方向がそこにあり
あらゆる反省の理由がそこにあると言っています。
 
 
国家は
国民の生存権を守るためにあり
そのためのみに存在する。
 
国家は
国民の生存権を守るために統治し
それ以外の最終目標を持ってはならない。
 
そのためにのみ
国民は定められた法制度に従う義務を負う。
 
いかなる場合も
国民の生存権はその経過においても
実行においても思想においても
妨げられてはならない。
 
 
(2018年03月09日、同日一部修正)
 
 
 
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