ちょいと哲学風味のことを書きますが、前にも書いたと思います。なお、私は、読書嫌い←読書苦手←黙読が遅い→読書障害か?なので、哲学書を読んだことはありません。
 
 
  存在
 
 
目の前にテーブルがある
というより厳密には
目の前にテーブルが見えている
 
手を伸ばして触ると
覚えのある触感を返してくる
冷たく滑らか・・など
 
目の前にテーブルがある(と思っている)
 
ほぼ恒常的で
ほぼ秩序だっていて
ほぼ双方向であれば
 
私たちにとって
存在になる
 
そう、
それは存在している(と思っている)
 
我思う、ゆえに我在り
という言葉の外に在るものは
そう思ってしまう人間の性質だろう
 
実際には
私たちだって
感覚の主体であって
感じているだけで
形など無いのかもしれない
 
しかし、さらに、
上の三つの条件によって
ほぼ意識せずに私たちは
私たちを包む世界がある(と思っている)
 
そう思って、大方、
自分にとって間違いや不利益がないから。
 
そう思わないで疑っても仕方ないから。
 
 
※ 
 
永遠から永遠に恒常であり
あらゆる秩序をつかさどり
呼べば答えて導かれる
と信じるに足る心の体験を経た者に
信仰が生まれるのかもしれない
 
つまり、言い換えると、
人間らしい性質すなわち人間性として
人間は、命にかかわるような
よきものを与えてくれた存在を忘れられない
それは、その者にとって、師となり、主となるからである。
 
忘れられない存在を
確たる客観的な証拠も知識もなくても
どうしても否定できないから神と呼び
救い主と呼んでいるのだろう
 
 
(2018年03月12日)
(2018年03月20日、下の2段目を加筆) 
 
記事の中で、双方向というのは
感覚など同じ反応を返してくるという意味です。
 
「われ思う、ゆえにわれあり」は高校で習って、
ラテン語「コギト・エルゴ・スム」は後年知ったことですが、
確かに自分という感覚の主体は存在する
では、他の人や物は?、と考えて
存在の証明は出来ないが、さらに後年、
どうしても他者や物の存在を前提とした世界の存在を考えてしまう
というのが上の3つの人間の性質だろう、とか考えたわけです。
なぜ考えてしまうかといえば、
そのように思わないと、それこそ絶対孤独になり、
唯一の「われ」の存在ということに人間は耐えられないからでしょう。
 
 
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