自ら救おうとする者たち
 
 
前にすでに引用した聖句を、また、テーマといたします。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:27
『姦淫するな』と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。
5:28
しかし、わたしはあなたがたに言う。だれでも、情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫をしたのである。
 (マタイ5:27-28、新約聖書)
 
このような極端とも思える教えを、なぜキリストは説いたのか。
既に書きましたが、さらに、なぜ、どうすれば天国へ行けるかなどと救いの律法を考え問うてくるのか、何かを守って、あるいは、何かをやめて、それで天国へ行ける者など一人もいない、つまり、罪なき者は一人もいない、という主旨だと申し上げました。
 
罪を犯さないことではなく、自ら罪人であることを認めて告白することが信仰です。
何故なら、人はせいぜいその立場近辺しか目が届かず、
とうてい神の教えまで守ることなど出来ないからです。
キリスト信仰は、赦されることをもって、義と見なされる信仰です。
そのことが、キリストと人の遣り取りとして、福音書に書かれています。
 
しかし、自分を救う神を自分で決めつけて、救われると信じる信仰者?がパリサイ人でした。そのように教えられ、律法を型通り守って尊敬される境遇で、保身しか考えないようになっていったのでしょう。彼らの型どおりの信仰には、形式的な救いの仕組みはあっても、信仰の実質としての愛が欠けていたのです。神の言葉にこだわるけれども、言葉に込められたものに無頓着でした。それゆえ、愛の必要な人々への思いやりについて無頓着でした。
 
罪悪感というものを感じないサイコパスが集まりやすいのは政治と宗教です。
ちょっと乱暴ですが・・。
 
  (ルカによる福音書、口語訳)
18:9
自分を義人だと自任して他人を見下げている人たちに対して、イエスはまたこの譬をお話しになった。
18:10
「ふたりの人が祈るために宮に上った。そのひとりはパリサイ人であり、もうひとりは取税人であった。
18:11-12
パリサイ人は立って、ひとりでこう祈った、『神よ、わたしはほかの人たちのような貪欲な者、不正な者、姦淫をする者ではなく、また、この取税人のような人間でもないことを感謝します。わたしは一週に二度断食しており、全収入の十分の一をささげています』。
18:13
ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天にむけようともしないで、胸を打ちながら言った、『神様、罪人のわたしをおゆるしください』と。
18:14
あなたがたに言っておく。神に義とされて自分の家に帰ったのは、この取税人であって、あのパリサイ人ではなかった。おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう」。
 (ルカ18:11-14、新約聖書)
 
このキリストの話には、何人も、自ら正しくなり、それをもって、天国に行く、などということは、ありえない、という明確なメッセージが込められていると思います。
 
キリスト信仰は、
正しくなるための信仰ではなく、
救われるための信仰です。
神の教えを守るための信仰ではなく、
神に憐れまれるための信仰です。
 
ここで、キリストの時代は、新約聖書以前の、イスラエルの古代の話です。そこに、イエスという名のキリストが現れ表され、多くの、これまでとは違った、むしろ逆説的だとも思える教えを伝道した時代です。
 
そのキリストに対して、律法を守っておれば救われる、それでいいじゃないか、何を今さら言っている、というパリサイ人らの抵抗勢力が対立し、ついにはキリストを殺した時代であります。
 
彼らは、一番大事なことを知りませんでした。にもかかわらず、知らないということを最後まで認めない者たちでした。彼らは、戒律を守ることから始めて、守るかどうかで測られるために、形だけ守っている自分を、救いに相応しい自分として、作って押し出してしまっていたのです。
 
 
人間は罪人だから、罪をなくさないといけない、罪を犯さないように、という短絡は、キリスト教内部においても珍しくなく、そして、さらに悪いことには、聖霊によって導かれ、既に十字架によって罪に死んだのだから、死体を蹴ってもびくともしないのだからと、罪を悔いることは必要ないなどと言っている人もいるのです。
 
私たちも、分かっている自分を作ってしまうことがあります。異教を聞いたときや、自分と反する教えを聞いたとき、分かっている自分を出そうとすることがあります。そのとき、少しばかり、お前、何を言ってるんだ、・・が入ります。ここで、既に挫折しているのです。
 
私たち人間は、言葉の内実を保つことさえできません。あるとき、ピンと来てないのに語っていることがあります。そのような人間という生き物に、さらに言葉に表された教えを守ることなど、出来ようもない、ということを基本としないと、出来る自分を作ってしまう危険があります。
 
しかし、何も分かっていないにもかかわらず、私たちは、伝道のために語ることが勧められています。ならば、語るべきことは、他者の罪ではなく、自分の幸いのみならず、むしろそれより前に、自分の中に潜むもの、思い込み、勘違い、聖書の言葉を宛がって終わらせること、聖なる御方に任せると言って逃げていること、出来るのにしないこと、言えるのに言わないこと、分かっているつもり、等々、それらを自ら暴く姿勢を基本として始めるしかないでしょう。
 
これらは、悔い改めに直結しており、祈りに直結しており、自分を見つめることであり、神への、信仰の切々たる思いに満ちた心貧しき捧げものであり、神と人間との双方向の関係において、神の導きを待ち望むという信仰の基本的な姿勢であります。
 
 
(2018年03月22日、同日一部修正)
 
暴く(あばく)
 
 
 
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