人間と魔性
 
 
魔性は人間の心のうちにあり
意地や強がりや優劣などで人を惑わせて
ことごとく神に与えられた良心と対立します。
 
人間は人間の心で
すなわち人間の知情意で共鳴することしか受け取れないはずです。
 
奇跡を聞いて分かったつもりになり
受け取ったつもりでも
その内実は皆無であります。
奇跡は人間の知情意で理解することなど出来ないからです。
 
理解できなくても受け入れるのが信仰だと言う者たちが
中身のないものを受け入れれば
それは人間の罪なる邪悪な心で変質し腐ってゆき
無謬の魔性を固定するだけなのです。
 
人間はそれほど勝手に心を作り変える習性を持っています。
何故なら楽なほうに楽なほうにと心が働くからです。
自分の安い知情意で
つながらない筋道を結び付けて言葉にするでしょう。
 
良心の弁えのない者たちは
節操のない短絡の思路を好むので
言葉にしやすい気安さだけで神の業を語る思考停止です。
 
彼らは分かることと分からないことの区別がつかないので
総てを分かったことにしてしまう報いとして
人間なら分かるはずの話が通じなくなるでしょう。
 
分かるのが信仰者だと思う者たちは
分からないと言えずに
分からない理路を分かったかのように言葉だけ語ります。
そしてやたら福音だ聖霊だとありがたがるのです。
 
独り悦に入ったり
人前で妄想の滅裂のまま豪語したり
あるいは慇懃な社交に忍ばせたりします。
 
彼らが聖句として
「幼子のように」「弱さを誇る」「いつも喜んでいなさい」
などを好むこと自体が
この聖句が誤解のもとになりやすいことを示しています。
 
大人は幼子にはなれません。
聖句は無批判で従うことを教えてはいません。
弱さは誇るものを持たないことです。
弱さに生きることが気高いこともあるのです。
高い低い、強い弱い、賢さと愚か、
このような言葉は偽善者に悪用されるので要注意です。
 
いつも喜んでいる人は人間ではありません。
常時薄笑いのホラーです。
 
現在の人間の原罪の話に至る前に
非を認めることの大切さを話したら
いきなりだらだらと神の話を始める人を警戒してください。
 
祈りは
現象としては悔いであり反省であり願いであります。
それを
悔いもせず反省もせず
願う代わりに悟り顔で讃美する者を警戒してください。
 
敬虔は
口数少ないとは限りません。
消極的であるとは限りません。
優しそうな見た目とは限りません。
頷いて逆らわないこととも違います。
神を恐れるゆえに人を疎かにしないことです。
 
神は私たちの弱さをご存知です。だから祈りが成立します。
 
讃美だけを繰り返すのは神のご機嫌を取ることです。
神は機嫌を人に左右されるような御方ではありません。
そのような呪文のような讃美を喜ぶ御方でもありません。
聖書に書かれた神の性質から明らかなのです。
 
讃美の量と回数にこだわる者たちは
まだ本当の全知全能の神を認めていないのです。
褒めると機嫌がよくなるような
やさしいおじいさんが好きと言っているだけなのです。
 
だから彼らは
戒める神も懲らしめる神も試みる神も知らないで
愛されていると一方的に思い込みます。
 
神を恐れる人たちは
悪魔を恐れる以上に神を恐れるように
目を覚ましておくべきです。
 
神を恐れない者たちは
讃美しておけばよいと思っている者たちは
不完全な人には神と悪魔を見分けにくいことを知らずに
自らの安易な思い込みで神だ悪魔だと決めつけて
いずれ逆らう人を悪魔呼ばわりするでしょう。
 
逆らう者については
理路と情感を備えている批判者であるか
その根拠にまたしても超常の聖書語を使う魔性か
ということが見分けるヒントになるでしょう。
魔性は神と自分の区別さえつかない冒涜者です。
 
理路はあくまで人間の理路です。
情感はあくまで人間の情感です。
神は超常ですが
私たちが必要とし理解可能なのは人間の理路と情感だけだということを
全知全能の神は既にご存知であり
キリストは知っておられたゆえに人々に共感し
ゆえに聖霊もまた同様のあり方でありましょう。
 
 
(2018年03月25日)
 
弁え(わきまえ)
神の業(かみのわざ)
慇懃(いんぎん)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]