偽善
 
 
福音書が教えていることは複雑なことではない。
 
 (マルコによる福音書、口語訳)
2:5
イエスは彼らの信仰を見て、中風の者に、「子よ、あなたの罪はゆるされた」と言われた。
 (マルコ2:5、新約聖書)
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
7:21
わたしにむかって『主よ、主よ』と言う者が、みな天国にはいるのではなく、ただ、天にいますわが父の御旨を行う者だけが、はいるのである。
7:22
その日には、多くの者が、わたしにむかって『主よ、主よ、わたしたちはあなたの名によって預言したではありませんか。また、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって多くの力あるわざを行ったではありませんか』と言うであろう。
7:23
そのとき、わたしは彼らにはっきり、こう言おう、『あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ』。
 (マタイ7:21-23、新約聖書)
 
神のみ旨を行うということは、人間一般の善行を積むことではないだろう。神と人の関係と、罪の自覚と悔い改めのことを言っていると思う。だからキリストによる罪の赦しは、病の癒しという行為になっている。
 
言い換えると、一般的な善行を積むということは信仰の中心でも目的でもない。神の御旨であるところの罪の自覚と悔い改める心があれば、人を疎かにはしないから、道徳的な善行は自然とついてくるものとなるだろう。
 
行為一つ一つが総ての時空の影響を考えて厳密に善であるか悪であるかを知り得ない私たちにとって、神のみ旨を行うとは、つきつめれば、祈りしかない。
 
「あなたの罪はゆるされた」
罪は赦される
 
「あなたがたを全く知らない。不法を働く者どもよ、行ってしまえ」
偽善は赦されない
 
これだけなのである。複雑な超常の理屈をこねる必要はないのである。まだ十字架にキリストがつく前に救われた人々がいる。そこで、戒律を守ることなど問われてはいない。また罪の贖いについても、救われた人々は、よく知っていたわけではない。
 
罪の自覚があり、正直な悔い改めの告白をして、赦しを乞うだけで、犯罪人でさえ赦されている。神の前に精一杯の正直を捧げたからだ。
 
それが出来ず、あるいは、する気がなく、不完全で罪を犯していながら、その自覚がなく、神が見ておられるのに、救われるものと思い込んで慢心している者は、悪であるのに善を装う者、即ち、偽善者である。善を装うということは、罪を認めないということ、即ち、既に善の自覚であるから、赦される必要を感じていない、即ち、救いを拒んでいるのである。
 
シンプルに救われた人々を読んでいると、救われるために必要な人間の側の要素のようなものが、私にも不十分ながら見えてくる。彼らは、不完全であることの悲しみを知っていた。
 
救われた人々は、
キリストの前に正直であった。また自分に対しても正直であり、願いが強い分、言いたいことはキリストの前でも言った、食い下がるように。どこまでも低い自分として遜っていた、あるいは、低さを自覚せずにはおれない立場にいた。自分の力に頼らなかった、あるいは、頼れるような力を持たなかった。キリストの前で、見える、知っている、守っている、分かっている、とは言わなかった、あるいは、言えない自分の立場を痛感していた。
 
ここに、神と人の立場の違いも、罪の赦しの必要性も、含まれている。教理は既に、ここに尽くされているのだ。
 
贖罪の十字架で救いの仕組みを語るよりも、人間として蔑まれて死んでゆくキリストの悲しみに共感し、キリストの痛みと悲しみを思うべきだ。
 
どうあるべきかが書かれているのに、なぜ無条件に死ぬまで罪が赦されているなどと予定調和の保証にしてしまうのか。どうあるべきかで十分なのに、なぜ、いつも讃美や喜びを・・という強引なプラス方向に持っていこうとするのか。
 
 (マタイによる福音書、口語訳)
5:4
悲しんでいる人たちは、さいわいである、
彼らは慰められるであろう。
 (マタイ5:4、新約聖書)
 
人間の感情のうち、
最も深い悲しみこそが、最も大きな喜びに通じている
ということを聖書は伝えている。
 
 
(2018年03月27日)
 
遜る(へりくだる、謙る)
蔑む(さげすむ)
 
 
 
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