愛と信仰
 
 
愛とは、広辞苑によれば
大切にすること・・等々書いてあります。
ここに人の愛憎が絡むので他にもいろいろ書いてあります。
 
私たちが信仰を学ぶのは何のためでしょう。
キリスト教は愛の宗教だと言われます。
 
他の宗教においても
また個人の道徳においても
愛、慈愛、仁愛を施すことが勧められるでしょう。
 
しかし
愛という言葉を口にするのが
何か恥ずかしいのは何故でしょう。
 
男女の愛を連想するから恥ずかしい
ということもあるでしょう。
しかし
その根底にあるのは
十分に愛することが出来ない
という体験に圧倒されるからではないでしょうか。
 
言い換えれば
人間は身勝手のために
アガペーという無私の完全な神の愛を施せないからでしょう。
 
したがって
愛についての説教は
愛し合いましょう
という愛の促進で収まるはずはないのです。
 
愛するという当為には
必ず
愛せていないという事実がついてくるのです。
 
こういうところなのです。
うわべの聖書語と
聖書から生きる言葉を読み取るということの違いです。
 
言葉は使っているうちに平板化してきます。
言い換えれば心を失ってゆきます。
特に聖書の言葉のうち特に超常の神聖を表す言葉は
その初めから概念の具象を持たないので
呪文に近くなることさえあります。それを聖書語と呼んでいます。
 
聖書のキリストの説教を聞いてまた読んで
気持ちよくなって喜んでいるだけでは
信仰の切っ掛けにはなるとしても
(私もそうでした)
それが信仰だとは言えないのです。
 
そこでとどまらず
愛せていないという現実に対して
人間の本質から救いを与えるのが信仰だからです。
 
人間はときに、
どこか?どこか?間違えて
愛するつもりで傷つけています。
愛にこだわって裏切りのレッテルを貼ります。
そして妬み怒り憎みます。
愛するべきだと悪を見逃します。
一方を愛するべきだと他方を裁きます。
そして、ある日、驚きます。
これは、いったいどうしたことか・・。
驚く人はまだマシなのです。
 
これら、すべて、人間の業(ごう)からの保身であります。
 (仏教由来のような言葉を私が用いましたから当然不正確です。
  業は個人に個別に性格及び経験から備わる認知と反応のゆがみの傾向
  ・・みたいな意味で使っています。失礼。)
 
キリスト信仰は愛を説く信仰ですが、そこで
愛せない人間の罪を知り尽くしたキリストの洞察と共感に基づいて
祈りによって罪の赦しを乞う道を説いています。
そして、その道が生きるために不可欠であることを説いています。
 
それは、愛しているつもりで傷つけるという偽善の落とし穴からの救いであります。
傷ついた人間の癒しと傷つけた人間の悔い改めの道であります。
 
いつもいつも悔いているわけではありません。
しかし悔いる必要がなくなる道ではありません。
私たちは伝道の言葉を忘れてはいけません。
 
(伝道の書7:14)
順境の日には楽しめ、逆境の日には考えよ。神は人に将来どういう事があるかを、知らせないために、彼とこれとを等しく造られたのである。
 
ここに、罪深く不完全な人間の信仰者としての日々の成り行きの過ごし方が端的に表されています。当たり前といえば当たり前ですが、いつも正しくあることが人間には無理だという前提を感じます。
 
順境を楽しむことは誰でもできます。逆境において考えることが信仰の務めなのです。上のほうに書いた、これはいったいどうしたことか、という時が来るのは必然であり、それを知情意合わせて考えるために信仰は生きているのでしょう。
 
私は福音という訪れを聞き、
神への音信という祈りをお返し申し上げて生きています。
 
 
(2018年03月29日)
 
当為(とうい)≒意味において「べき」のつくこと。事実と対比。
 
 
 
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