聖書
 
 
聖書を読み始めたときから
心に残る聖句を思い出しては
知りたいから学ぶことで
キリストとの縁を感じてゆくのでしょう。
 
だから現象としては、
聖書から信仰を学び取って
信仰の道を歩む決心をした過去があります。
 
だから現象としては、死ぬまで、
または、神がこの世を裁く終末の時まで
これからも聖書から学び取ることになりますが、
最初と違うのは
人間としての経験が積み重なってくることです。
 
心に残る聖句があるということは
そのとき心が動き
今も心が動いているということだ
ということを前に申し上げました。
 
心に残り
癒やしを与える聖句があることは幸いですが、
一方で
疑問として残っている聖句もあるというのが正常です
 
旧約を読めば
天地創造という超常の話から始まり、
大昔の人が罪を犯した話があり、
イスラエル中心の歴史があり、
神はイスラエル寄りだなぁ
・・でも厳しいなぁ・・と感じます。
 
新約を読めば
いきなりアブラハムからイエスまでの系図が語られ
日本人に言われてもと、
読む意欲を殺がれていました。
 
心に残る聖句にたどり着く行数までに
うんざりするような出来になっているのか。
 
そこに必要なのが福音伝道です。
既に聖書から幸いを受けている人の話が必要です。
牧師であったり、信徒であったりします。
余計な話をつけない心の話なら
聖句とともに心に残るでしょう。
 
そしてその心は
別の人に聖書の話をするときの源泉になるのです。
 
それにしても
どうして神聖の話ばかりしようとするのでしょう。
あたかも神聖を知っているかのように。
 
神聖なる領域からやってきて
地上に人間として生きた神聖はキリストだけです。
キリストは人間に共感し慰めと癒しと赦しを与えました。
そのキリストには多くの人が出会っている
というのが聖書の福音書です。
 
キリストの人間に対する愛と共感に
人間もまた共感そして感動できるのですが
 
キリストの超常の奇跡に驚いたとしても
それは不思議の力であって共感ではなく興味に過ぎず
今の私たちが期待できる奇跡ではなく
私たちが生きるのに必要な感動でもないのです。
 
キリストは人間に出会い
生きた人間に直に共感し
その琴線に触れた御方であります。
 
聖書から何を受け取ればいいでしょう。
教理、歴史、救済など、様々ありますが、
知識ではなく、
 
キリストだけが人間に共感しうる神の顕れであります。
 
キリスト教の教祖そしてキリスト信仰の信仰対象は
言うまでもなく、イエス・キリストであります。
 
どうして聖書から
およそ共感からは程遠い神聖の話ばかりしようとするのでしょう。
どうして話を超常の言葉で麗しく整えようとするのでしょう。
 
皆が皆、聖書を厳密に研究して解釈して、一字一句にこだわって、
信仰の糧を提供する学者の務めを負うわけではないでしょう。
私たち一人一人は人間としてキリストを必要としています。
 
だから私は神を知らない、知りたくもない、怖いから。
 
しかし私は
たとえ詳しく知らなくても
イエス・キリストを一生忘れられないと思うから、
その御方を、キリストと呼び、主イエスと呼ぶのです。
 
 
(2018年03月30日)
 
縁(えん、えにし)
殺ぐ(そぐ、削ぐ)
麗しい(うるわしい)
 
 
 
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