すべて?絶えず?
 
 
 (テサロニケ人への第一の手紙、口語訳)
5:17
絶えず祈りなさい。
5:18
すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって、神があなたがたに求めておられることである。
5:19
御霊を消してはいけない。
5:20
預言を軽んじてはならない。
5:21
すべてのものを識別して、良いものを守り、
5:22
あらゆる種類の悪から遠ざかりなさい。
 (1テサロニケ1:17-22、新約聖書)
 
絶えず祈りなさい
 
 24時間続けて祈ることではない
 ということは、不可能だから、明らかである。
 それならというんで、
 しゅっちゅう出来るだけ頻繁に祈ることだろうか。
 否である。
 祈りが必要だと思うから祈るのだから、
 頻繁に祈ればいいというものではないだろう。
 
 原語は知らないが、言い換えると、
 祈りが絶えてしまうようになってはいけない。
 例えば
 以前は悲しいとき苦しいとき折に触れて祈っていたのに
 そういう時に今は祈らなくなった
 ということがあってはいけませんということだろうと思う。
 
 神の沈黙への忍耐を教えている。
 待ち望む心を失ってはいけないということだろう。
 
 迫害の時代には特に忍耐と継続が必要だったからだ。
 
この聖句は、事実ではなく、当為である。
現実ではなく、理想である。達成ではなく、目標である。
また、戒律ではなく、教えである。束縛ではなく、解放である。
教えが、重荷ではなく、救いとなるためである。
 
聖句にあるように
教えは神が求めておられることである。
しかし神が罰を与える基準ではない。
 
感謝できないことがあることを
御言葉を忘れていることがあることを
正邪を識別できないことがあることを
良いものを守れないことがあることを
悪から遠ざかれないことがあることを
神は既にご存知である。
 
私たちは良いことがあり悪いことがあることを
私たちは教えを守ることがあり守らないことがあることを
私たちは教えを守れる時があり守れない時があることを
神は既にご存知である。
 
神はご存知であるから
罪人を憐れんで
それでも義を与えるために
キリストを遣わし
信仰を与えるのである。
 
そうでなければ
救われる者は一人もいないからである。
 
神に相応しい人が救われるためではなく、
神に憐れまれる人が救われるために
救い主が必要である。
 
 
(2018年04月25日)
 
当為(とうい)≒「べき」という意味の付くこと。
相応しい(ふさわしい)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]