「苦楽」コメント抜粋
 
 
信仰とはそんな難しいことではないです。
 僅か3歳にして信心頂いた幼子も居るのです。
 見つめるは我が心だけ。
 政治など無関係、所詮 人間の為すこと…
 
2018/4/17(火) 午前 4:03[ こうさん ]返信する
 
 
政治の話は、思いついた愚痴のようなものとして書いております。記事にするには、私は知識も乏しく不十分ですから、コメントとして書くことが多く、信仰の話と関連づける意図はありません。
 信仰は、謙って祈る心だから難しくはないと思いますが、決めつける心性からは、知識と体験の絶対化が起こることを危惧して、注意を促してゆくつもりです。
 
2018/4/17(火) 午前 4:44[ st5402jp ]返信する
 
セキヤンさんのことを含めて言っておられるのなら、むしろ、私からは、政治など無関係と言っていられる気持ちは宗教人のおごりであろうと思います。
 
2018/4/17(火) 午前 4:46[ st5402jp ]返信する
 
そう、そのように、すでに、他のことを軽視するような、自己の宗教ワールド絶対化の兆候が表れているではありませんか。
 
2018/4/17(火) 午前 4:51[ st5402jp ]返信する
 
信仰者が政治にかかわることを是としているのは、信仰から政治の正しさを導くなどという大それたことではなく、関わるまいと思っても政治は否応なしに関わってくるからです。つまり信仰者として、というより、この国に住んでいる人間として国民として目をそらしてはいけないと思うからです。
 
2018/4/17(火) 午前 5:01[ st5402jp ]返信する
 
 
人間の為すことに真の正義はありません。
ここにヘビに睨まれたカエルがいます。
 最早カエルの命は風前の灯火
それを不憫に思い人は助けます。
 一見、良い行いをしたようですが
 カエルは命を拾いましたが、カエルを
食べ損ねたヘビはやっとありつけた
 チャンスを失い、餓死してしまいます。
これが人の正義、真の正義を行うなら
自分の血肉をへびに与えれば良かったのです。
 所詮、その程度の人間の正義、
 信仰を語る者か並べて語るまでもない、
という意味ですよ。
 誰かを攻撃する姿勢は褒められません。
 
2018/4/17(火) 午前 5:31[ こうさん ]返信する
 
 
ヘビとカエルの話が人間の不完全を表す以上に
どう関係するのか分かりませんが、
前にも書いたような気がするけど、
人間の語る正義も真実も所詮その程度のものならば
なぜ、政治は無関係などと、信仰とは別の物事について
軽くしかも断定的に、言ってしまうのでしょう。
信仰さえ分かっておればよい
というのは、悩み多きこの世を生きる人間として
問題の共有と悲しみの共感を
喪失してゆく方向ではないでしょうか。
そうなってしまう人間の性質こそが
人間が考え体験する信仰もまた絶対ではなく、
相対的である証拠だと思っています。
絶対化すれば、おかしくなってゆくのです。
 
また、私のコメントを
攻撃と受け取ることには問題はないのでしょうか。
私は指摘しただけです。
こういう指摘については、以前からずっと
遣り取りの中では気づいたときにしてきたことです。
 
2018/4/17(火) 午前 6:25[ st5402jp ]返信する
 
 
人間の本質を説く者が人間の為す
政治を宗教家と並べて語ることに
違和感を感じたまでです。
セキヤンさん?何のことですか?
 
 自己の宗教ワールド絶対化の兆候
こう言われてあなたは何も感じませんか?
 少なくとも そんなワールドを持ち合わせては
 いませんよ。
 
2018/4/17(火) 午前 6:37[ こうさん ]返信する
 
 
セキヤンさんは、政治活動家、
こうさんさんの前のコメントですが、
関係はないということなら、それでいいのですが、
では、私の記事のほうを言っておられるのでしょうか。
信仰から政治を考え、ではなくて、
単純に選挙もあるし、
信仰者が政治を考え、なのですが。
 
記事ということならば苦楽というテーマですから
内部だけでなく外部の原因も考えるべきでしょう。
公害など人災や犯罪は、まさにそうでしょうから。
それも、政治など無関係、と言ってしまうのでしょうか。
 
2018/4/17(火) 午前 7:48 [ st5402jp ] 返信する
 
>人間の本質を説く者が人間の為す
>政治を宗教家と並べて語ることに
>違和感を感じたまでです。
 
政治と宗教を並列して書いているということなら
私のコメントや記事の並べ方が悪かったのかもしれません。
お詫びいたします。
 
政治は私に関わってくるものだが
信仰は私の命を支えるものです。
並べて同じように語れるとは思っていません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:48 [ st5402jp ] 返信する
 
政治は政治で感じること考えることを
自信はないですが今は時々コメント中心に書いています。
それでも考えなくてよいものとは思いません。
 
信仰について考えることのほうが遥かに多いです。
自信はなくても直接心と命に関わることなので
それ以外のことよりも多く書くことになります。
 
信仰の非絶対性つまり相対性はお認めにならないようですね。
人間の本質を解く、という行為も、
まぎれもなく人間の為すところでありますから
相対性から逃れることは出来ません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:49 [ st5402jp ] 返信する
 
前のほうのコメント
> 見つめるは我が心だけ。
> 政治など無関係、所詮 人間の為すこと…
 
1行目は、こうさんさんの精神世界の信仰の話。
それを宗教ワールドと表現しました。
そこに心は住み、そこで精神は活動しているという意味です。
それに比べると・・2行目ということになり
人間のなすことをより軽く見ていると思いますが・・。
 
さらに
> 所詮、その程度の人間の正義、
> 信仰を語る者か並べて語るまでもない、
というコメントで強化されていると判断しました。
 
繰り返しますが私は政治と信仰を
並べて同じように語っているわけではありません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:49 [ st5402jp ] 返信する
 
> 自己の宗教ワールド絶対化の兆候
>こう言われてあなたは何も感じませんか?
 
私が言われたら、上のほうに書いたような説明をして、
絶対化ではない、または、
絶対化にならないように努めると答えます。
 
> 少なくとも そんなワールドを持ち合わせては
> いませんよ。
 
精神世界が信仰のみに限られているような印象を受けました。
その精神世界のみを重要視するゆえに
それ以外の人間の動きについて
疎かになっている可能性を危惧いたします。
この世のことは総てご自身と家族と友人に関わっているのです。
信仰とは見方が違いますが、
歴史的にも今の現実においても無関係ではありません。
 
2018/4/17(火) 午前 7:50 [ st5402jp ] 返信する
 
私たちは、本質の断定ではなく、
あらゆることにおいて
可逆的で修正可能な判断によって生きている
という自覚を持つべきだと思っています。
それを私はブログを通して
キリスト信仰における私の今の判断として語ってきたつもりです。
 
無常の人の世をどう生きるかという宗教的体験も思考も無常です。
本質が語っているなんて思わないほうがいいと思います。
 
2018/4/17(火) 午前 7:50 [ st5402jp ] 返信する
 
本質が語って(誤)→本質を語って(正)
 
ここも記事にするつもりです。
 
2018/4/17(火) 午前 8:00 [ st5402jp ] 返信する
 
本質を語っているなんて思わないほうがいいと思います
 というのは、本質だ、本質的なことだ、と言っても
訂正不能にしてはいけないという自覚が大事ということです。
 訂正不能にした信仰は何が起こっても、
 起こったことを信仰に合わせようと、詭弁を作り始めるからです。
 経験ですが、そういうサイトを約6年間批判してきました。
 
2018/4/17(火) 午前 8:15 [ st5402jp ] 返信する
 
 
人の本質、心を見つめなければ心理には
辿り着けないですよ。
これは絶対と言い切れます。
 釈迦や親鸞が厳しい修行をどれだけ繰り返そうと
私の心は変わらない、と気付き、
その心を捉え真理を悟らされたように
私もそうであり、また導く上でも
 それ以外には気付きに会えないのを知り
皆さんを導き、信じるのではなく
仏に信じさせられる信心を獲得する道を
実行して、数多くの結果を出して居るからです。
 私はこのネットの広い世界ならば
心理に至った方とも出会えるかと思いましたが
 いまだに会えた方は1人のみ、それも私と同じ
母から教えを請うた方でした。
 誤解を恐れず言いますが、私は迷い法を求めてはいません、
いつかあなたが言った伝え手として、
 法を語っているのです。
 
2018/4/17(火) 午前 8:45 [ こうさん ] 返信する
 
 
>人の本質、心を見つめなければ心理には
>辿り着けないですよ。
>これは絶対と言い切れます。
 
人間にとって絶対と言える命題は
「絶対は絶対にない」ということだけだろうと思います。
 
絶対は神のものです。
人が絶対だと言う先には
同語反復の無限ループが待っているということが
既に聞いたような言葉の
似たような感じの繰り返しになってゆくでしょう。
 
2018/4/17(火) 午前 10:23 [ st5402jp ] 返信する
 
>仏に信じさせられる信心を獲得する道を
 
信じたのではなく、信じさせられた
という言い方も、前にも言われたような気がしますし、
それはまた、カルトの自己正当化の論法でもあります。
神が聖霊が、という、させられ体験は、
私が何度も書いてきたカルトの口上なのです。
 
>実行して、数多くの結果を出して居るからです。
 
短い人間の生きる時間の中の、
そのまた一部で成り立ったことが
広い世界に通じると言うように
恐れもなく真理?と言ってしまうのです。
心の理つまり心理と言い換えても、
それこそ人間の心理は絶対ではないのですから。
 
2018/4/17(火) 午前 10:23 [ st5402jp ] 返信する
 
> 私はこのネットの広い世界ならば
>心理に至った方とも出会えるかと思いましたが
> いまだに会えた方は1人のみ、それも私と同じ
>母から教えを請うた方でした。
 
人から教えを受けた心理のどこが絶対なのでしょう。
 
> 誤解を恐れず言いますが、私は迷い法を求めてはいません、
>いつかあなたが言った伝え手として、
> 法を語っているのです。
 
私が言った?・・分かりません。
少なくとも私は
悲しみの尽きない世にあって
悲しみを感じなくなる法よりは
悲しみを経て知る愛のほうを愛します。
 
2018/4/17(火) 午前 10:24 [ st5402jp ] 返信する
 
 
(2018年04月26日)
 
謙る(へりくだる、遜る)
 
 
 
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