贖い
 
 
キリストの十字架は人の罪の贖い
ということは、
聖書から学び教会で聞く。
 
だからといって
いつもそれを思い出して
あるいは唱えて
感動できるわけではなく
心の支えになるとも限らない。
 
人は不完全であるがゆえに
同じ情緒を保てないからだ。
 
感動しているように演技することは出来ても
感動をそのまま保持することは出来ない。
感動に再現性はなく、そのとき限りである。
 
しかしこのことは
人がいつも
新しい感動を求めている証拠であるから
悲観する必要はないだろう。
 
ある者は
それを現実の話として語り、
経験談を語る。
ある者は
それをフィクションとして、
小説に、物語に、ポエムに。
ある者は
表現を考える。
そして悩む。
 
問題意識を持たず
新しい何かを求めないで
平気で繰り返して
それが信仰だと思い込んで
悩まない者は
恐らく悲しみの共感者にはなれないだろう。
その必要を感じないほどに鈍麻しているからだ。
 
思い煩うなという教えは
人が思い煩ってしまうことを前提として語られている。
何かを勘違いして思い込みで
思い煩わない者は
その前提がないので教えを分かっていない。
 
思い煩うなという教えを
常時平安の陶酔境地にしてしまったからだ。
 
キリストの十字架は
人の罪の贖い
このことを理解する人は
ダイレクトに自らの罪を思うだろう。
 
それが
命を賭したキリストの
アガペーの愛を理解することであり
 
罪が贖われたことを喜びたいならば
聖書から体験から個々に
救い主が命を投げ出さなければ救われないほどの
人の罪の深さを思うべきである。
 
 
(2018年04月29日、同日一部修正)
 
贖い(あがない)
アガペー≒犠牲を厭わない神の愛
厭う(いとう)
 
 
 
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