「苦楽」コメント(2)コメント (一部割愛)
     記事「苦楽」コメント(2)は
     
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19706359.html
 
 
御二方ともに、貴重な遣り取りを有り難うございますm(_ _)m
 
感謝。
 
2018/4/28(土) 午前 0:57[ ◯ ]返信する
 
 
こうさんさんと戸田さんのやり取りを拝見して感じる事。
 
こうさんさんの思考は水平的であり、戸田さんは垂直的思考なのではないかと。
ご承知のように民俗学者の柳田國男氏は日本人の思考は〈神は海のかなたから来る〉とする水平的思考であり、西洋の〈神は天空から降臨する〉とする垂直的思考と比較できると指摘しています。
 
この水平と垂直ではなかなかお話が交わりにくいのではないかなと。こうさんさんからすれば、人はいつか迷いのない境地すなわち神の境地に達することができると信じておられ、実際に仏を信じた者は迷いがなくなる。しかし戸田さんからすれば、もともと神様というのは人智でははかり得ない方なので、人間の努力によってはその神様の域に到達することは到底不可能ということになる。
 
2018/4/28(土) 午前 2:42tensoba返信する
 
 
そうですね・・働きがあれば到達できる絶対、と、上の絶対とその支配の下の相対と不可知、・・いいものだから分かるはず、と、いいものほど完全には分からないという姿勢、・・それと、気づいて得られる境地と、気づいてもさらに死ぬまで続く道、とかの違いかな・・とか思っています。
 
2018/4/28(土) 午前 4:40[ st5402jp ]返信する
 
不可知が恐れと敬虔を育てるという人間の側の姿勢は、キリスト教でもなかなか分かってもらえないようです。気づいて知るべしという信仰とは、やはり違うような気がします。
 
2018/4/28(土) 午前 4:43[ st5402jp ]返信する
 
 
戸田さんはもともと精神科医であられますから、そのような方に言うのはまさに釈迦に説法ですが、それを承知で書きます。
 
 不安のある人を前にしてその方の治療に当たる役を仰せつかったとします。
カウンセリングの基本では、カウンセラー自身はなんら具体的なアドバイスはせず、もっぱらクライアントの話をひたすら聞く。そうしているうちにクライアント自ら自分自身の問題に気づき、多少なりとも解決策を本人なりに気づいていく。そういうのがあると思います。
 
このカウンセラーに当たるのが人なのか神すなわち見えない聖霊と言うべきだと思いますが、その違いがこうさんさんと戸田さんの立場の違いとも思えます。
 
2018/4/28(土) 午後 0:12 tensoba 返信する
 
 
> tensobaさん
 
優秀な精神科医なら今も仕事しているわけです。(汗)
 
おっしゃられているようなカウンセリングの面接は、むしろ神経症圏内の病気に対する心理面接のほうだと思いますが、一般に相談ということなら、結果として功罪あり上手下手あるけど、それを承知の上なら、やりたい人がやってもいいのでしょう。
 
私が勤めていた病院では、心理面接は予約制で心理の先生がしていました。精神科医の仕事は予約でないから時間もなくて、受診される患者さんの言うことを聞いて、様子や態度を見て、問診して、その状態像を把握して診断して治療方針を立てることがメインでした。
 
カウンセラーは人か神かという問題ですが、私はあくまでも人です。人としてしか聞けないし語れません。神は見ておられるだろうと思いますが、人は神の立場には立てません。私が、人に絶対は絶対にない、と言っているのはそのためです。神については、推測と解釈に過ぎないことを肝に銘じておくべきだと思っています。
 
2018/4/28(土) 午後 1:12 [ st5402jp ] 返信する
 
信仰についてのスタンスの問題があるだろうと思います。神聖をテーマとするか、神聖を信じる人とその心をテーマにするか、ということで、私としては、解釈とか仮説とかを超えて個人についての決定的なことについては、人は神聖をテーマにすることは出来ないと思っているので、信仰の話において伝道者は、あくまで人の側であることを弁えるべきだということです。ですから、聖句を引用して話し合うことはあっても、人が、神の立場で、神の御心はこうだとか、教えることがあってはいけないと言い続けているつもりです。
 
聖書の解釈について自他の説を提供するのと、神の御心を伝えるのとは決定的に違う、というのが私の考え方です。それで私が福音として伝えたいのは、人間に理解と共感が可能なキリストの人格面です。キリストの奇跡・・すごいでしょ、というのは、それ以上の共感は出来ないはずだから、奇跡を伝えても、奇跡を期待するのが信仰ではないと思っています。
 
2018/4/28(土) 午後 1:12 [ st5402jp ] 返信する
 
> ◯さん
 
遅れました。コメントありがとうございます。
 
2018/4/28(土) 午後 2:07[ st5402jp ]返信する
 
これも記事になりそうだな・・HN出していいでしょう?御二方へ。
 
2018/4/28(土) 午後 2:08[ st5402jp ]返信する
 
> tensobaさん
 

こうさんさんの思考は水平的であり、戸田さんは垂直的思考なのではないかと。
ご承知のように民俗学者の柳田國男氏は日本人の思考は〈神は海のかなたから来る〉とする水平的思考であり、西洋の〈神は天空から降臨する〉とする垂直的思考と比較できると指摘しています。

 
興味深い指摘だと思います。日本の神は、やさしく力強い仙人的なおじいさんのイメージでしょうか。
 
水平と垂直ということですが、私にとっては、同じ次元と言うか地上と言うか、水平線から来られる、というより、やはり神は、人が近づけない天におられるイメージが強くて、垂直的思考かもしれません。しかし、祈るときには、仰ぐ姿勢になるとはいえ、そこに神はいて、聞いておられるという信仰でもあります。一対一の関係でありながら、祈りは身近に聞かれているつもりで祈ります。同じ時間に億単位の人が祈っているかもしれなくても祈りは聞かれる、一神遍在論と聞きました。向こうから一人一人に来られるが、こちらから行くことはないという神の位置的イメージでしょう。
 
2018/4/28(土) 午後 2:47[ st5402jp ]返信する
 
 
仏様は遠い極楽浄土にはいらっしゃいません。
 私の醜い心に寄り添い、その悪しき姿を
 しらせてくれています、片時も離れずに(^^)
だから私は後悔して懺悔し、感謝して
 お念仏させてもらえるのです、
ありがとうございます、と。。
 
2018/4/28(土) 午後 7:32[ こうさん ]返信する
 
 
お二人は共に主観的。学問的には「あなたはそう思うのですね」と捉える事もできるだろうし、人間として友にだってなれるかもしれない。相容れなくても終わりがなくても主観のぶつかりあいは第三者からは面白く見えます。当事者はしんどくなるかも知れませんが(笑)。ただ一番悪いのは、こうした時に客観的に状況を分析した感じで「こういう状況ですね」と解説して終わりという姿勢。そして穏便に平和であるかのようにまとめようとする事。それって実は相対主義ではないかな。綺麗に見えるけど、結果的に双方を否定する事になりはしないか。こういう事って現代社会では多すぎる気がします。ここからは私の主観(笑)。仏教は学問的には興味深いし面白い。だけど信仰的には受け入れられない。私はカトリック。たぶんベースはかなり近いからかst5402jpさんの話に同意。キリスト教徒には無神論者よりは何かを信仰する者として分かる部分はあっても根本的には分かり合えないと思うし分からなくて良いとも思います。その前提がないとイエズスさまの福音を宣べ伝えるという意味がなくなるのではないかなぁ。しかし信仰の弱い私には宣教はできないけど。
 
2018/4/28(土) 午後 11:37 Rick 返信する
 
 
もうすぐ端午の節句で桃太郎人形を飾る家もあるかもしれません。
この桃太郎の昔話が古事記に関わりがあるのはよく知られています。
さらに踏み込んでこの桃ですが川上から流れてくるというのがミソ。
 日本人の神様というのはキリスト教と違い、川という地上のどこかで神様とつながっていてそのつながりの中で桃太郎が鬼を退治してくれるようになっています。
だから「水平的思考」なのです。
 以上は民族学者の柳田國男氏がどこかでそんなことを書いていたのを思い出してのコメントです。
 
2018/4/29(日) 午前 0:31 tensoba 返信する
 
rickさんはもっと全体を眺めてみるべきではないですか。この日の記事だけでコメント書いてませんか。こうさんさんと戸田さんのやりとり以外にも私とこうさんさんや私と戸田さとのこれまでのやりとりもあれこれあります。
 
>ただ一番悪いのは、こうした時に客観的に状況を分析した感じで「こういう状況ですね」と解説して終わりという姿勢。
 
これ、上から目線でとても嫌みな発言に感じました。
 
2018/4/29(日) 午前 1:01 tensoba 返信する
 
 
Rick様の

ただ一番悪いのは、こうした時に客観的に状況を分析した感じで「こういう状況ですね」と解説して終わりという姿勢。そして穏便に平和であるかのようにまとめようとする事。それって実は相対主義ではないかな。綺麗に見えるけど、結果的に双方を否定する事になりはしないか。こういう事って現代社会では多すぎる気がします。

 
ことなかれの社交?で終わるのは良くないし、掘り下げることで相対主義をある程度克服できるとしても、どう考えても人間に絶対主義というのは無理なように思われます。いたるところで正体不明の、相互理解不能のような、それぞれの前提となる要素や基盤の違いを感じます。そう感じ始めると、他者の意見、特に絶対的な要素の強い結論的な意見について、分かりにくくなってきて、実際、どう返せばいいのか分からなくなるのです。結局、それぞれの大事にしている言い分、出したところで終わることは多いです。そこまでを引き出すのが議論または交流なのかもしれません。
 
2018/4/29(日) 午前 1:32 [ st5402jp ] 返信する
 
 
こうさん様の
> 私の醜い心に寄り添い、その悪しき姿を
> しらせてくれています、片時も離れずに(^^)
>だから私は後悔して懺悔し、感謝して
 
これには共感があるのですが、しかしそれを書いてしまうと、話は、いつも絶対に・・を除けば、こうさん様との遣り取りの最初のところに戻ってしまうのです。
 
tensoba様の

日本人の神様というのはキリスト教と違い、川という地上のどこかで神様とつながっていてそのつながりの中で桃太郎が鬼を退治してくれるようになっています。
だから「水平的思考」なのです。

 
キリスト者も、自然の中に神の創造を感じることはあるでしょう。しかしながら、悪者退治してくれる桃太郎の代わりに、善のように見せかける偽善という悪を、キリストが指摘した以上、しかもそれが人間が最も陥りやすい大きな罪であると知った者は、勧善懲悪の公式では語れない深みへと思いを巡らす以外なくなってゆきます。
 
2018/4/29(日) 午前 1:33 [ st5402jp ] 返信する
 
三者三様+管理人の私、ということで、今回は、言葉での交流や議論といったものの、深いところを擦ったような、大事な気もするので、記事にして、みなさん、HN、出しちゃいます。言っても聞かないから。当然、これは主観の言い張りです。失礼。
 
(※補足 「言っても聞かないから。」は、言っても皆さんが聞かない、ではなく、HN出すなと言っても今回は私は聞かない・・という意味です。頑固ですみませんでした。)
 
2018/4/29(日) 午前 1:35 [ st5402jp ] 返信する
 
私の1:33コメント
「いつも絶対に」は、こうさん様の「片時も離れずに(^^)」を受けたものです。
 
私の1:35コメント補足:
これは主観の言い張りです→これは私の主観の言い張りです
 
2018/4/29(日) 午前 1:47 [ st5402jp ] 返信する
 
 
ここは良いですね、皆さんがそれぞれ
深く考えてくださる。
ただの傍観者ばかりでなく、
 自分の心で考えてくださる。
 答えが何が正しいとか、誤っているとかでなく、
その過程が貴重なんです。
 皆さん ありがとうございます。。
 
2018/4/29(日) 午前 3:13 [ こうさん ] 返信する
 
 
私の1:35コメントで、荒っぽいことを書いてしまいました。まとめるわけではないですが、いや、まとめようとしているかな、でも、まとまっていないのだし、・・。誰が悪いということでもなく、今回は、絶対と相対の、ずっと考えている問題なのに、私が、いつもよりも答えるのが難しかった、というか、答えられなかった感があって、だから手ごたえもなかったというか、イラついたというか、もどかしかったです。お詫びします。お祈りして、心を新たにしたいと思います。拝。
 
2018/4/29(日) 午前 3:27 [ st5402jp ] 返信する
 
 
tensobaさん
 あなたの事を書いたのではありません。
 喧嘩や罵り合いではなく、単にわきまえた主観のぶつかりあいは好きなんですよ。だからイイナと思って。それが言いたかったのと、現代社会の流れが相対的な事を良しとしている事に疑問があり自分自身が世代的にポストモダンなので影響も少なからずあり克服の努力をしています。自戒の意味でのコメントでした。だから上からに見えたのかな。あの部分は書かなきゃ良かったですね。誤解を招いたのならごめんなさい。
 
st5402jpさん
今のカトリックは絶対主義ではないんですよ「包括主義」って考えです。
 簡単に言えば他宗教の中にも良い部分を認めるがキリスト教が優位だと。そしてキリスト教の中ではカトリックが再優位だと。
 絶対ではなくて優位と表現されますが、意味合いは分かるんですけど難しいです。
 絶対主義ではないが相対主義は嫌う。
なんか難しい道をカトリックは選択したな、と思います(笑)。議論や交流は良いし好きです。やはり「あなたはそう考えるのですね」かなぁ。私は理解できるほどの教養がないので苦しくなってしまいます。でも対話はしたいな♪
 
2018/4/29(日) 午前 5:03Rick返信する
 
 
>今のカトリックは絶対主義ではないんですよ「包括主義」って考えです。
 
私が絶対ではなく相対だと言っているのは、神が絶対ではないということではなく、神は絶対だが、人は絶対を知り得ないということです。それに、私がよく知らないカトリック批判をしたつもりもありません。あえて言うなら、別のサイトで批判されていた福音派や聖霊派というところですが、むしろ信仰の絶対化は、教派とかではなく、それこそ、キリスト者一人一人に起こりうると思っています。人間の本性として絶対化願望があると思っていいます。
 
2018/4/29(日) 午前 6:05[ st5402jp ]返信する
 
 
批判されたとか全く思っていませんよ(笑)。
 以前のカトリックが周りに対して絶対主義をアピールしていたので、今は違うんですよって感じで書きました。
やはりRickには文章力がないのかな?すぐに誤解を招いてしまいます(汗)。
 絶対の話は激しく同意ですよ!
でも人間はそんなものです。
 私も含めてね♪
まあカトリックですから教会にも教皇さまにも絶対性を求めてしまうんですけどね(笑)。
 難しいのかなぁ…。
 
2018/4/29(日) 午前 8:11Rick返信する
 
 
コメントはまだありましたが、割愛させていただきます。理由は、
記事として長くなることと、私、あんまりよく分からなかったからです。
読みたい方は下記記事のコメント欄へ。
 「苦楽」コメント(2)
 
https://blogs.yahoo.co.jp/st5402jp/19706359.html
 
 
(2018年05月01日、同日一部修正)
 
 
 
にほんブログ村 ポエムブログ 暗い詩へ(文字をクリック)]  
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ(文字をクリック)]